村井財閥は、村井銀行を中心として村井汽船、村井倉庫、村井貿易を設立し多方面に事業を展開していきますが、第一次世界大戦後の不景気で村井貿易が破綻したあたりから、財閥に暗雲が立ち込めます。その最中の大正十五年(1926)に当主である吉兵衛が急死、更に翌昭和二年(1927)の金融恐慌により、村井銀行は廃業(翌年昭和銀行が買収)してしまい、ここに村井財閥は崩壊、永田町にあった約5千坪の邸宅も東京府に売却されました。
この邸宅地跡に西日比谷にあった「府立一中」が移転してきました。現在の都立日比谷高校がそれで、旧邸の門柱は今も高校の正門として残っています。
東京にあった村井銀行本店は関東大震災で焼失し、跡地に日本橋御幸ビルが建ち、一階に出入口が保存されていました。(現在その一角は再開発事業で工事中のため見ることができませんでした。)
京都にあった支店の一つ、祇園支店は菓子店が中に入り、七条支店はレストラン「きょうと和み館」として利用されています。
前回ご紹介した長楽館も人手に渡って、所有者を点々としていました。現在の長楽韓のオーナーによると、昭和二十二年(1947)に土手富三氏がここを訪れた時には、壁にはペンキが塗られ、荒れた状態だったといいます。土手氏は長楽館がとても好きで、持ち主に建物を売却してくれないかと何度もお願いをし、売ってもらうまでに5年かかりました。何とか応諾してもらい、購入した後、8年間をかけて一階を修復した後、本館でホテルと喫茶店を始めます。
その後少しずつ修復を重ね、昭和五十五年(1980)に約30年をかけて3階まで、前漢の修復を終えました。平成三十一年(2019)には築110年を迎えました。
村井財閥は失われましたが、その建物は各地に遺されています。
次回は宣伝合戦の一方の立役者、岩谷松平のその後をご紹介します。