おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

煙草(なつくさ)や つわものどもが煙のあと3

渋谷駅の南西の猿楽町に「天狗坂」と呼ばれる坂があり道脇に案内板が立っています。それによると、煙草専売法施行後、岩谷松平はこのあたりの土地13000坪で養豚業を始め、家屋敷もこのあたりにあったことがわかります。

渋谷と代官山の間にある天狗坂

明治末期に発行された本には「天狗煙草の岩谷松平は煙草が官業になってから豚天狗となった」(『珍物画伝』)と紹介され、更には「豚の種類を集めることもまた日本一」とも書かれています。ご子孫の話では、「常時二百頭くらいのヨークシャーとバークシャーがいた。」とのことで、本の内容も誇大表現ではないようです。
松平の出身地である薩摩は葉たばこの産地でもあるとともに、江戸時代からすでに豚を飼って食する習慣がありました。「豚天狗」となったのには、故郷の名産品を日本中に広めたい、という気持ちもあったのかも知れません。また、当時の雑誌に、「日本人の体格が欧米人より劣っているのは肉食をしないからであると考え、日本中の農家が豚を飼育するようになれば、農家も潤い、日本人も強い人種になり、ひいては世界の平和にも役立つ」という主張を載せていて、いかにも「国益の親玉」を自称する彼らしい理由だと納得させられます。さて、村井吉兵衛は、専売化の際1120万円もの補償金を受取りましたが、松平のご子孫によると、「専売が実施されたときに、松平が国からもらった保証金(補償金か?)は36万円。」だったということです。「国益の親玉」としての矜持があって多額の補償金を受け取ることを良しとしなかったのでしょうか。

天狗坂案内板 この辺りが岩谷松平の邸宅&養豚場でした
松平はこの渋谷の地で晩年を過ごします。別の子孫の話では、「広い屋敷内には農場や牧場もあって、馬や牛、それに豚もいた。」とか「早く本妻を亡くしたお爺さんの部屋へは、そのお妾さんたちが毎日交替で世話をやきに来ていたらしい。だからお爺さんの子供や孫は五十何人もいて、五十二郎というのが私と同じ年の男の子の名前だった。」
などと書かれいます。大正九年(1920)、ライバル村井吉兵衛の亡くなる六年前に岩谷松平はこの世を去ります。晩年は脳卒中で半身不随となってしまいますが、たくさんの家族・親族に囲まれたにぎやかな生涯だったのでしょうか。
次回は岩谷松平の養豚業のその後などをご紹介します。