上野公園、正式には上野恩賜公園は元々寛永寺の寺領でした。最盛期の寛永寺の寺域は30万5千余坪にもおよぶ広大なものでした。ピンときませんが、東京ドーム約22個分というとその広さに実感がわきます。
しかし、現在では上野公園の中で寛永寺をイメージするものといえば、五重塔くらいではないでしょうか。
寛永寺の本坊(住職の住まい)は、かつては東京国立博物館の場所にありました。幕末の慶応4年(1868年)の上野戦争、すなわち彰義隊と明治政府軍との戦いで戦場となったため、五重塔、清水堂などのみが残るだけでした。
この辺りの話はいつか改めでご紹介したいところですが、ここでは上野に寛永寺が建立され、不忍池に弁天堂が建てられた理由についてご紹介します。
寛永寺の山号は「東叡山」(とうえいざん)といいますが、文字通り「東の比叡山」の意味です。京都の北西に比叡山延暦寺があり、宮城の鬼門を守っています。鬼門とは北西の方角(丑寅)の忌むべき方角を言います。江戸城、江戸の街にとって、寛永寺は鬼門の方角にあり、同じ役割を果たしているのです。
家康・秀忠・家光の三人の将軍は、天台宗の僧、天海僧正(慈眼大師)に帰依していましたが、この鬼門の方角を守るため、秀忠が元和八年(1622)にこの地を天海に与え、開基(創立者)を家光とし、開山を天海として寛永二年(1625)に建立されました。
天海が滋賀県の琵琶湖に模したのが不忍池であり、竹生島になぞらえて池の中に島を築いて弁天堂を祀りました。ずいぶんとミニチュア化したように思われますが、天海にしてみれば江戸の町の平穏を守るために大真面目だったと思います。
不忍池の話、まだ続きます。