おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門2

前回ご紹介したように、「江川太郎左衛門」表記ではいつの時代の当主かわからないので、「江川英龍」表記で話を進めていきます。さて、前回ご紹介したように、伊豆韮山代官としての江川家は大名並みの領地を治めています。当時の地域の人たちからは「殿様」「韮山公」などと呼ばれていたようです。

江川英龍 よく知られた肖像画(坦庵は英龍の号です)

享和元年(1801)に江川家の次男としてこの世に生を受けます。お兄さんの名前は英虎といいました。お父さんは「英毅(ひでたけ)」、お祖父さんは「英征(ひでゆき)」ですので、男子には「英〇」とつけるのが家の習わしだったのでしょう。もしかして生まれ年の干支から「虎」とか「龍」とつけたのかと思いましたが、英龍の生まれ年は酉年でした。兄弟に「龍虎」の文字をそれぞれにつけた訳ですね。

江川邸(代官屋敷)の門

世襲で代官を務めているので、嫡子が代官役を継承します。父親の英毅は自分が現役の代官を務める一方、次世代のために英虎を「代官見習い」としていました。しかし、文政四年(1821)に英虎が病気で亡くなってしまいます。それにより英龍が嫡子となり、三年後の文政七年(1824)「代官見習い」となりました。

ちなみにこの間に日本史でどのようなトピックが起こっているかというと、

文政四年(1821) 伊能忠敬が「大日本沿海輿地図」完成(忠敬はその3年前に死亡)

文政七年(1824) 水戸藩領の大津浜や、薩摩藩領宝島にイギリス人が上陸し、現地で騒動が起こる

つまり、日本近海にヨーロッパの船が出現し始めた時期でした。

父の英毅が天保6年(1835)に死去、英龍は35歳で当主となり、代官を継ぐことになりました。この年、幕府は財政窮乏を補うため「天保通宝」を発行しますが、逆に経済に混乱を招き、慢性的な物価高騰を招いてしまっています。

英龍が韮山代官となったのは、まさに内憂外患、幕末に差し掛かろうとする時代でした。