おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門3

韮山代官の支配する地域は広く、石高は多いものの、代官への給米は150俵。これは知行地でいうと150石取りにすぎません。更に支配地域の行政のための手代や他の雇人がいたことを考えると、台所は火の車でした。そのため、自身を先頭に家人・雇人には徹底的な倹約を実践しています。

福沢諭吉の「福翁自伝」に兄から「江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中でも袷一枚着ている」と兄から聞き、それに倣って毎晩掻巻(かいまき)一枚で敷布団も敷かず畳の上に寝ることを始めた、という話も残されています。

この天保の時代、享保天明と並んで江戸三大飢饉の一つ、「天保の大飢饉」が発生した時期で、支配地に隣接していた甲斐国山梨県)においても、天保騒動とも甲州騒動とも呼ばれる百姓一揆が発生しています。

世直し江川大明神の幟(のぼり)

英龍は支配地内で農民が窮状を訴えてくると金銀米穀等を貸渡して窮民の救済に努めています。江川邸内に「世直し江川大明神」の紙幟(のぼり)が保存・展示されています。右下に「御支配万々歳」の文字が見られます。、飢饉の中で救済に勤める代官の支配地にあって「この地域の農民で良かった」という思いが伝わってきます。

また、英龍の肖像画は目が大きく、黒目がちで、鼻も高いのが印象的ですが、手代の斎藤弥九郎と二人で刀売りに扮して甲州に偵察に行った時の話が残っています。

こんなさっとした絵でも目が大きく描かれています

偵察中、ある宿屋に泊まったとき、斎藤弥九郎は宿屋の女中から、「お連れの方はなぜあのような眼光をされているのですか。なんだか恐ろしく感じられます」と言われます。答えに窮した弥九郎は、「あの人はいつも剣術を好んでいるのであのような眼光になったのだ」と答えました。英龍は甲州偵察のことを思い出しては、後日笑ってこの話をしたと伝わっています。

ちなみに一緒に同行した斎藤弥九郎神道無念龍の剣術家で、後日幕末江戸三大道場の一つ「練兵館」を創設した人物です。女中にとってそれより鋭い眼光の持ち主で、よほど恐ろしく見え、印象に残ったのでしょう。

優秀な代官であった英龍は、蘭学と砲術に傾倒していきます。