おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門4

この時期日本近海に外国船がしばしば見られ、その中には捕鯨船も多く見られました。これは欧米においてランプなど灯火の燃料として鯨油が用いられたためです。今でこそ燃料といえば石油ですが、石油を採掘し使用するのはこれより後のことです。

当時の捕鯨は、鯨を獲って解体、鯨油を樽に詰めて不要な鯨肉は捨て、船が鯨油でいっぱいになるま捕鯨を続けるというものでした。数年にわたって航海することも多く、薪水を求める事態も起こっていました。

前々回に名前だけ出した文政七年(1824)の大津浜事件も、水戸藩大津浜に英国人12人が上陸し、水や新鮮な野菜を求めたものです。

こうした事件を受けて、翌年幕府は「異国船打払令」を制定しました。これは、日本沿岸に接近する船について、オランダ、中国以外の西欧の国の船を発見と同時に攻撃するよう命じたものです。ずいぶん乱暴な話ですが、要は日本に近づかないよう威嚇して追い払う、というのが目的です。

北茨城市漁業歴史資料館「よう・そろー」 この写真は関係ありませんが、
大津浜事件を紙芝居にした展示が行われています

韮山代官所のある伊豆半島は、三浦半島とともに東京湾の西側に突き出ていて、江戸への海路の要衝です。英龍が海防問題に強い問題意識を持ったのも当然と言え、天保八年(1837)正月には幕府に対し、海防に関する建議を行っています。

同じ年、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づいて砲撃を行いました。「モリソン号」には日本に漂流民7名が乗っており、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航したのですが、有無をいわさず大砲を打ちかけた訳です。浦賀を離れたモリソン号は、その後鹿児島湾に入ろうとしてそこでも薩摩藩の砲撃を受けます。当時の日本の大砲は旧式で、弾は破裂しない単なる鉄球でしたので船に大きな被害はなかったものの、武装のないモリソン号は日本を離れるしかありませんでした。

この事件を商船の名前そのまま「モリソン号事件」といいます。まだ砲術が出てきませんが、話は続きます。