この時期日本近海に外国船がしばしば見られ、その中には捕鯨船も多く見られました。こ
当時の捕鯨は、鯨を獲って解体、
前々回に名前だけ出した文政七年(1824)の大津浜事件も、水戸
こうした事件を受けて、翌年幕府は「異国船打払令」を制定しました。これは、日本沿岸に接近する船について、
韮山代官所のある伊豆半島は、三浦半島とともに東京湾の西側に突
同じ年、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、浦賀奉行が「異国船打払令」に基づいて砲撃を行いました。「モリソン号」には日本に漂流民7名が乗っており、日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航したのですが、有無をいわさず大砲を打ちかけた訳です。浦賀を離れたモリソン号は、その後鹿児島湾に入ろうとしてそこでも薩摩藩の砲撃を受けます。当時の日本の大砲は旧式で、弾は破裂しない単なる鉄球でしたので船に大きな被害はなかったものの、武装のないモリソン号は日本を離れるしかありませんでした。
この事件を商船の名前そのまま「モリソン号事件」といいます。まだ砲術が出てきませんが、話は続きます。