英龍は長崎に出向いて高島秋帆に弟子入りし、高島流砲術を学びます。更に江戸で演習を行うよう進言します。折も折、天保十一年(1840)に隣国の清とイギリスとの間にアヘン戦争が勃発します。戦争は2年にわたり続きましたが、イギリスの一方的な勝利となりました。
清国の砲術装備は日本同様の旧式なもので、射程距離が短いばかりか丸い鉄の玉を打ち出すだけで大きな損害を与えることができません。一方イギリスの最新の大砲が打ち出す弾は長い射程距離をもつだけでなく、弾が爆発する炸裂弾で清の兵船を次々と破壊し沈めていきました。アヘン戦争の経過と結果は、長崎に入港していたオランダや清国の商船船員を通じて幕府に伝わり、大きな衝撃を与えます。
英龍の進言だけでなく、秋帆も幕府に火砲の近代化を訴える意見書を提出し、その意見は聞き入られるところとなり、天保十二年(1841)五月九日、武蔵国徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)において日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われました。
元々この徳丸ヶ原は幕府の鷹狩場とされていた場所で、これを砲術訓練所として利用したものです。板橋区赤塚にある松月院(しょうげついん)には、砲術訓練を行った際に本陣が置かれました。境内には高島秋帆顕彰碑が建てられています。
この演習は総勢100人以上の大規模なもので、老中水野忠邦以下幕府要職と諸大名だけでなく、近隣からも町人たちが大勢集まって見学(見物)しました。
発射演習では、従来の日本の大砲の3倍以上の射程、約1KMの長距離砲の発射や、ゲベール銃の一斉射撃などが行われ、火縄銃しか知らない見学者に大きな衝撃を与えました。
砲術の話、続きます。