おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門7

この演習で高島秋帆と徳丸ヶ原の名前は全国に知られるようになり、秋帆は砲術の専門家として幕府に徴用され、「火技中興洋兵開基」と老中阿部正弘から称賛されました。

板橋区郷土資料館の紹介映像より 高島秋帆肖像画

余談ながら徳丸ヶ原については、昭和三十六年(1961)頃からこの一帯を開発し新しい街を作る計画が持ち上がります。この地に団地を建設することが決定し、その際、土地権利者を中心とした審議会で新しい地名(住居表示)が検討されましたが、その際かつて徳丸原で砲術訓練をおこない、一躍天下にその名を轟かせた「高島」秋帆の姓と地形の「平」から「高島平」と名付けることが決まり、昭和四十三年(1968)10月20日の「板橋区のお知らせ」で高島平と呼ぶことを発表しました。(板橋区郷土資料館より)

同じく高島平の紹介映像

さて、秋帆が幕府に徴用されたことで、江川英龍も正式に秋帆から砲術を学ぶことを命じられます。私的に学んでいたものが公用として認められたわけですね。
秋帆により幕府の兵制改革が進んでいれば、幕末はまた違ったものになっていたのかも知れませんが、演習の翌年の天保十三年(1842)十月に長崎奉行によって捕らえられ投獄されてしまいます。

通説では洋式砲術の隆盛を妬ん鳥居耀蔵が「密貿易をしている」「幕府への謀反を企んでいる」などと讒言したものとされています。この時の長崎奉行伊沢正義は鳥居の姻戚でもあり、弘化二年(1845)に鳥居が失脚すると伊沢も長崎奉行を罷免されていることや、ライバルや邪魔な人物を鳥居が追落とす方法とこのケースが似ていることから、通説が正しいような気がします。
この事件で高島家は断絶となり、秋帆自身も武蔵国岡部藩に幽閉される身となりました。昨年の大河ドラマ「青天を衝く」では玉木宏さんがこのシーンを演じておられました。十年十ヶ月後の嘉永六年(1853)に秋帆に赦免の許可が出ると、英龍は秋帆夫妻を迎え入れ、江戸の屋敷内に部屋を作って面倒を見ています。

師である秋帆の逮捕・蟄居は、英龍を大いに嘆かせます。しかし、西洋流砲術でこの国を守ろうと構想し、今度は自らの手で高島砲術を改良しながら西洋砲術を広めて行こうと、韮山にある自邸を「韮山塾」として開放しました。

韮山の私邸内の一室に塾を開き、砲術の研究を行いました

最初の門人となったのは、信濃国松代藩真田幸貫(老中・海防掛)より洋学の研究をするように命じられた藩士で、その名を佐久間象山といいました。

砲術の話、題名を変えてまだ続きます。