おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場ーシティへの道2

大砲の試射を行うにも、韮山周辺の農民を誤って傷つけたり、田畑に被害を与えないように配慮して適切な場所を測量・調査しています。また、前回「爆裂弾の開発・研究も行っていました」と書きましたが、爆裂弾は中に詰めた火薬とそれを爆発させる時間を調節する「信管」の部分に分かれます。後者がうまく働かないと不発弾になったり、発射と同時に爆発したりするので、各国の機密事項でもありました。

この時期、オランダ商館長であったクルチウスのもとに、英龍の家来が訪ね、爆裂弾の仕組みについての質問を行いました。クルチウスは、「そのことは国家機密であるため、国法に反するためそれを教えることはできない。」と断ったうえで、家来の尋ねた質問内容について、「これまでそのことへ疑問を呈する者はいなかった。実に素晴らしい人物だ。」と英龍たちの研究内容を称賛しています。

ボウリングの玉のような砲弾ですが 信管が砲弾爆発のカギを握ります

また、英龍の先見性を示した施策提案の一つが「農兵の採用」で、「百姓・町人が武芸を身に着けることは不可能であることは承知の上、韮山役所の最寄りの支配所の村々から人物確かな百姓を選び、砲術・武術を稽古させ、緊急の場合は集合させたい」というものです。「武芸を身に着けることは不可能」とか「緊急の場合は~」というのは武士階級に憚ってのもので、本心は、太平の世に慣れた武士には任せてはおけない、という気持ちが強かったと思われます。

幕府としては、士農工商として兵農分離を進めてきており、この献策を簡単に採用することはできませんでしたが、嘉永六年(1851)に、下田の警備にあたる足軽に関してのみ、という条件で農兵の取り立てが許可されました。この前年、オランダ商館長クルチウスは「アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣する」ことを長崎奉行に対し書面で提出しています。幕府が重すぎる腰を上げて英龍の献策をほんの一部認めたのには、そうした背景もあったかも知れません。

英龍の韮山での活躍の話が続きます。