おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場ーシティへの道3

話を天保十二年(1841)、徳丸ヶ原での砲術演習の時期に戻すと、この時に兵士に対して掛けられた号令は、オランダ語がそのまま使われていました。英龍もこの方式で当初農兵への訓練を行っていましたが、慣れない言葉では兵が理解できず、なかなか思い通りの動きをしてくれません。そのため、英龍は日本語に言い換えて判り易い号令を作り出していきます。

韮山代官屋敷(江川邸)遠景 ここでも農兵の訓練が行われたでしょうか

「気をつけ」、「休め」、「右向け右」、「回れ右」等、現在の体育の時間に使われる号令はこの時期韮山の地で生み出されました。また、軍隊として集団で行動を行うための規律を定める試案を作ろうとした形跡も見られます。

また、英龍は「パン祖」としてもその名を知られています。これは、饂飩粉(うどんこ、つまり小麦粉)と饅頭の元(麹=イースト)を使って1年程度保存できたといいますから、通常の主食としている食パンというより今でいう乾パンのようなものと考えればいいでしょう。

日本における戦場食は米を輸送し、戦場で煮炊きするか、焼き米などを携行するのが常でしたが、前者は補給のための部隊を別途構成する必要があり、後者は決して消化の良いとは言い難いもので、兵士の健康管理上数日間ずっと食せるものではありません。乾パンであれば、兵士一人一人に持たせルことができます。

韮山代官所(江川邸)に遺された文書には、「麦粉百六十目 砂糖四十目 卵五ツ 右の三昧を水にてこね、焼き鍋にて焼く」等製法が記されています。英龍がこのパンを焼いたとされているのが天保十三年(1842)四月二日で、邸内には「製パンの碑」が建てられています。

邸内に建てられた製パンの碑

碑の上部に八角形の傘のようなものがついていますが、焼き鍋にて焼いたパンの形がこんなものだったのかも、と想像しました。

製パンの碑説明板

韮山の地で砲術・兵制の改革を進める英龍ですが、時代はそれ以上の仕事を求め、話は続きます。