おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場ーシティへの道4

天保十四年(1843)に鉄砲方を命ぜられた英龍ですが、同年筆頭老中の水野忠邦が行っていた「天保の改革」の失敗により失脚してしまいます。この政変にも鳥居耀蔵の裏切りが関わっていますが、そのあおりを受け、翌年英龍も鉄砲方の職を罷免されています。そうした中でも韮山での訓練・研究は続けられました。

韮山代官所(江川邸)に展示された銃 右下は「韮山笠」

嘉永二年(1849)にはイギリス軍艦のマリナー号が江戸湾に来航、浦賀と下田で測量を始めるという事件が起こりました。下田奉行から測量を中止し退去するよう勧告しますが、イギリス側はその勧告を侮り応じようとしません。幕府は英龍に交渉役を命じますが、この時通常の質素ないで立ちを豪華な衣装に着替え、一緒に連れた手代・家来たちにも正装させて小舟でマリナー号に乗り込みます。そこで通訳を使い、「勧告を行った下田奉行は人民15万人を治める官吏である」旨を伝えました。これにより、下田奉行を下級官吏であると侮っていたイギリス側の態度が変わり、お互いに丁重な態度で会談が進みイギリス船の退去に成功したのです。

英龍は一貫して幕府に対して海防策を建議しており、その数は三十以上もありますが、このマリナー号事件以降、下田防備を中心とした建議が続いています。

嘉永六年(1853)のペリー来航により、老中阿部正弘は英龍を勘定吟味役格海防掛に任命し海防の仕事にあたらせます。ペリーがを司令長官とする四隻の船には六十三門の艦載砲が装備されており、当時の日本の防備武装では太刀打ちできるものではありませんでした。

幕府は圧力に屈する形でアメリカ大統領フィルモアの親書を受け取り、十二代将軍家慶の病気を理由に返答に1年の猶予を要求、開国の可否についての回答を引き延ばすのがやっとでした。

西洋式艦載砲模型(江川邸展示)

回答への猶予を得た幕府は、アメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて、江戸湾警備を増強すべく英龍らに砲撃用の台場設営を命じます。当初の防御案は現在の千葉県富津市にある富津洲先から、神奈川県横須賀市の旗山崎の間に九基の台場を築き、江戸湾を封鎖する案でした。

しかし費用と時間の関係から品川区の品川漁師町から江東区の深川洲崎にかけての海上に十一基、品川の御殿山に一基、合計十二基の台場を築くことが決まりました。

次回からお台場の話に移ります。