おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で2

当初の予定を大きく縮小して終了した台場築造ですが、ペリー艦隊は品川沖まで接近したところで、この砲台を見た後に六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)まで戻っていますので、台場築造が一定の心理的影響をペリーに与えることができたのではないかと思われます。

第三台場から望む第六台場 右端にレインボーブリッジが映っています

最終的に幕府は当時寒村であった横浜村に応接所を設け、その地で嘉永七(1854)年三月三日日米和親条約が締結されることとなりました。

結局この砲台は一度も火を噴くことなく、日本は開国することになりましたが、それぞれの台場には、各藩の人員が配置されました。

当初配置(その後配置の変遷あり)されたのは

第一台場 川越藩(川越松平家 十七万石)

第二台場 会津藩会津松平家 二十三万石)

第三台場 忍藩(奥平松平家 十万石)

第五台場 庄内藩(酒井家 十四万石)

第六台場 松代藩(真田家 十万石)

御殿山下台場 鳥取藩(池田家 三十二万五千石)

で、川越・会津・忍の三藩は「松平」の名からわかるように徳川家の一族である親藩、酒井家は三河時代から徳川家家臣であった譜代です。徳川家との関係の深さで何となくわかりますが、真田家と池田家は外様大名で任命されています。

とはいっても、当時の松代藩主、真田幸教(ゆきのり)先代藩主で祖父の幸貫(ゆきつら)は寛政の改革で知られた老中、松平定信の実子であるとともに、老中をも務めた人物で、形式的には外様でも幕府とは近しい間柄にあたります。ちなみに韮山塾の最初の門人、佐久間象山はこの松代藩藩士です。

一方池田藩主、池田慶徳(いけだ よしのり)も、「烈公」の名で尊王攘夷思想の主導者であった水戸藩徳川斉昭(なりあき)の実子から養子に入っており、こちらも幕府に近い血縁がありました。

こうして、各台場に各藩の人員が配置されると大砲だけでなく、火薬庫や陣屋なども配備されました。

第三台場 砲台跡  当初忍藩が担当しました

第三台場 火薬庫跡

次回も品川台場の話が続きます。