おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で4

街歩きにスマホgoogle mapで経路を調べることがあると思いますが、「大江戸今昔めぐり」というアプリを使うと、江戸時代の地図と現代の地図を重ねて見ることができ、散歩に楽しみが増します。

御殿山下台場跡の紹介にあたっては、今の品川の地図では想像もつきませんが、このアプリで当時の地図を重ねると理解できるので、ここでは付近のスクリーンショットを示しながらご説明します。

「大江戸今昔めぐり」画面 北品川駅から御殿山下台場近辺の古地図

北品川駅から南側は、京浜急行本線の線路の東側に旧東海道が通っていますが、その東側の八ツ山通り以西は海で、利田新田の先に陸続きで五角形のようなでっぱりが造られていますが、これが御殿山下台場のあった場所で、現在では周囲が全く埋め立てられてしまっていることがわかります。

この台場の跡地は現在小学校と幼稚園になっていて、その名も「台場小学校」「台場幼稚園」。小学校の入口に台場跡を示すモニュメントが遺されています。

台場小学校正門前にあるモニュメント

「砲台」でなく「灯台」が立っているので、最初の印象は???ですが、ちゃんと説明が書かれていました。

台場の跡は、土台の石垣でした

灯台は明治になってから第二台場に造られた品川灯台の模型で、土台として築かれた石垣が台場跡にあたります。ちなみにこの石垣は伊豆半島の真鶴石が使用されています。

台場には当然のことながら大砲が備え付けられますが、台場築造開始と同じ年の嘉永六年(1853)に、湯島に湯島馬場大砲鋳立場が設けられ、鋳造にあたりました。が、ここで製造された大砲は青銅製の旧式のもので、飛距離も十分ではありません。

この時期の日本には、最新式の鉄製の大砲を作る技術がなかったからです。日本においては、鉄の鋳物や刀剣を作る技術は進んでいましたが、溶かした鉄(銑鉄:せんてつ)は不純物が多くもろいため、そのまま大砲にすると強度が足りず、砲身が破裂してしまいます。大砲を製造するためには、銑鉄から不純物を減らすため、さらに高温で融解させる「反射炉」が必要でした。

ここから英龍は「反射炉」の建造に取り掛かることになります。その話は次回以降に。