おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

反SYAROってなんJARO

ちょうど3年くらい前に、日本テレビの「鉄腕ダッシュ」の中のコーナで反射炉を作るという企画がありました。そこで紹介されていた日本の反射炉が、「韮山反射炉」です。確か2年半かけて作ったという話でしたが、改めて番組HPで確認すると、およそ2年半、880日に及ぶ作業を経て、約4万枚のレンガを積み上げて築造した、とありました。
反射炉の「反射」は、銑鉄を溶かす部分の「炉」の天井部分をドームのように湾曲させ、中の熱を天井で反射させて1500度以上を出すように工夫されているものです。

反射炉の構造 高く伸びるのは煙突部分ですが、「反射部分」は炉体部にあります

反射炉による大砲鋳造方法は、約二十年前の天保年間の初め頃からオランダより伝わっていたようです。(高島秋帆が技術書を輸入したともされています)
すでに英龍は反射炉の研究自体は始めており、嘉永二年(1849)には小型の実験用のものを江戸の邸宅内に作っていましたが、日本での実用化は、嘉永三年(1850)に佐賀藩が完成させた「築反射炉」が最初です。
佐賀藩は長崎との位置関係から、福岡藩とともに長崎警備を担当しており、当時のアジアを取り巻く状況からも海防の必要性を強く感じていました。
佐賀藩鍋島直正は、幕府に海防の必要性を献策しますが、当初却下され、独自に海防強化策を実施することになります。その海防策とは、長崎近海に台場を築き、そこに鉄製大砲を備え付けるというもので、そのために反射炉の建設が必要になりました。

鋳鉄製カノン砲模型(韮山反射炉

その際、「韮山塾」にも協力を要請し、英龍も積極的に協力し、反射炉完成の翌年には鉄製大砲の鋳造を行いました。(もっとも試射の結果この大砲は破裂してしまい、成功して軌道に乗るにはさらに一年を費やしています)
嘉永六年(1853)のペリー来航後、英龍は手代を佐賀藩に派遣反射炉での大砲鋳造を見学させています。その上で幕府に対して「下田のあたりで大砲を製造し、これを台場に据え付けたい」と建議し、建築費の見積もりを提出しています。

これにより、伊豆の地に反射炉を造る計画が始まりましたが、当初の予定地は韮山ではありませんでした。次回も反射炉建築の話が続きます。