おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

涙、武士だよ人生は3

プチャーチンは長崎⇒上海に移動しますが、長崎に滞在しているとクリミア戦争の様相やアジアにおける、敵国イギリス・フランスの情報を入手することができない他、船のメンテナンスもできない状態だったからだと思われます。

その間、英龍は品川台場の築造に関わっているので、この時点ではロシア艦隊の来航の情報は知っていても、直接関わることはありませんでした。

12月に長崎に再来航したプチャーチンは、幕府の対ロシア交渉全権代表、川路聖謨(かわじ としあきら)と筒井正憲(つつい まさのり)と会談を行いました。

ペリーの再来航を控えた時期であり、交渉はまとまらなかったものの、将来日本が他国と通商条約を締結した場合には、ロシアにも同一の条件で条約を締結する、という合意で決着しています。いったんロシア艦隊は長崎を離れ、マニラに向かい、船の修理や補給を行います。英龍が台場築造に加え、反射の築造にも取り掛かった時期です。

第三台場の竈跡(手前左)および陣屋跡(奥)

ロシア艦隊はその後北上し、自国領のインペラトール湾に入ります。艦隊は4隻からなっており、これまで旗艦としていた「パルラーダ号」は老朽化した木造船でした。そのため、次回の日本への航海のため。本国から回航されていた「ディアナ号」に旗艦を乗り換えています。そのまま4隻での艦隊行動はとらず、それ以外の艦船は現地に残り、旗艦1隻のみで三たび日本に向かいました。3月にアメリカが先に日本と和親条約を結んだ、との報が入り、焦っていたかも知れません。

インペラトール湾は、アジア大陸の沿海州樺太の対岸あたりにあり、南下して日本を目指します。長崎まで向かう余裕がなかったのか箱館に入港したのが嘉永七年8月のことでした。しかし、同地での交渉を拒否されたことから、ディアナ号は大阪に向かいます。翌月には大阪に到着、大阪も大騒ぎになります。大阪奉行から下田に回るよう要請を受けたプチャーチンは、日本との関係を悪化させないよう配慮しつつ、今度は下田に向かって船を進めていきました。

ディアナ号が下田に入港したのは、10月14日のことでした。英龍にとってはまた新たに問題を抱え込んだと思ったことでしょう。

ディアナ号の話が続きます。