おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る2

500人のロシア人たちは3回に分かれて帰国しています。ヘダ号が完成する1ヶ月ほど前の2月25日に、159名の乗組員がアメリカの商船カロライン・E・フート号に乗船して戸田港を後にしています。プチャーチンが商船の船長にカムチャッカへ送ってもらうべく傭船契約を持ちかけ、契約が成立し第一陣が出発したのでした。

そして第二陣は、出来上がったばかりのヘダ号にプチャーチン始め48名が乗り組み、3月22日に戸田港を出発しました。最後の第三陣は6月3日、ドイツ・ハンブルグの商船グレタ号を傭船し残りの約278名が出発しています。

しかし、この第三陣だけは運悪く、航海途中の6月19日に2隻のイギリス軍艦に出くわしてしまい、乗組員たちは捕虜として捕らえられてしまいます。彼らが解放されたのは、翌年クリミア戦争が終わってからでした。

第二弾のヘダ号は6月20日無事にロシアのニコラエフスク港に到着し、翌年の1856年にロシアの軍艦オリヴーツァ号に曳航(えいこう)されて下田に帰還しています。

その後、この船をモデルとして「君沢形」の西洋式帆船とそれを縮小した「韮山型」が建造され、品川台場にも配備されました。

第三台場船着場 近くまで君沢型・韮山型の帆船が来ていたのでしょうか

一方、反射炉の建造は西洋帆船ほど順調ではありませんでした。英龍存命中の嘉永七年(1854)の安政東海大地震ではそれほどの損傷・被害も受けませんでしたが、翌年7月29日に伊豆方面を襲った暴風雨では、積み上げた煉瓦を接合していた粘土が剥がれて崩落してしまいました。前年の地震でのダメージと暴風雨が原因だったと思われます。

この崩落により、建造途中まで築き上げたものを全部取り崩して改めて築き直す、ということを行っています。この工事の指揮をとったのがわずか16歳で跡を継いだ英敏でした。その際、築造地周辺の土で煉瓦を焼き作業費用や効率を上げる工夫なども行っています。そうした曲折を経て、安政四年(1857)11月に韮山反射炉は完成しました。

親子二代かかって韮山反射炉は完成しました

次回は、この反射炉周りをご紹介していきます。