おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る4

韮山反射炉のすぐ横に川が流れています。反射炉建造の際、この古川を改修し、流れを反射炉側へ川筋を曲げました。

改修により流れを曲げられた古川(写真左側)

反射炉周辺の地図 古川が「へ」の字に湾曲していることがわかります

曲げた川から取水口から木樋を通して水車を廻し、その動力によって砲身に穴を穿ちました。反射炉内の案内板に当時の錐台小屋(すいだいごや:砲身の穴を繰り抜く作業を行う場所)や動力源の水車のCG写真が示されていました。

平成二十七年(2015)に韮山反射炉は「明治日本の産業革命遺産」として登録されてましたが、この改修した区間約144メートルも世界遺産に含まれています。

古川についての説明板

この反射炉では、安政四年(1857)の築造完了後、炉には火が入り、銑鉄の溶解と大砲の鋳造が始まりました。銑鉄については島根県の石見(いわみ)と岩手県南部から入手したものが原料として使われました。翌年3月30日には、最初の大砲である18ポンド砲が完成し、その後の試射についても成功しています。その後の7年間でこの鋳鉄製18ポンド砲4門の他、青銅製のカノン砲やホウイッスル砲など46門(記録上)が製造されました。完成した大砲のうち、28門が品川台場に配備されましたが、これらの大砲は沼津港から伊豆半島を回り、約1ヶ月かけて江戸大森に陸揚げされたようです。

わずか16歳で家督を継いでから7年後の文久二年(1862)に、英敏も享年24とうい若さでこの世を去ります。父の担った仕事と、時代の風雲の重圧が彼の寿命を縮めてしまったのでしょうか。末弟であった英武がわずか10歳にして家督を継承、韮山代官となった他、鉄砲方や講武所の教授方にも任命されました。

英龍が遺した動植物の絵 動乱に巻き込まれなければ趣味人として一生を終えたかも

さて、元治元年(1864)8月に韮山反射炉の閉鎖が決定します。せっかく築造した反射炉でしたが、大小砲すべて幕府が直接掌握して行うべき、との名目で、砲の製造は江戸の関口製造所・滝乃川反射炉で行うことになったためです。江川家私営となっていた反射炉は風化が進んでいましたが、明治四十一年(1908)見かねた韮山村有志が反射炉敷地を買い、陸軍省に献納したことで再工事され、翌年に落成しました。以降、韮山反射炉保勝会が維持・管理を行ない、現在に至っています。

英龍の富士の絵

英龍が塾生を連れて天城・箱根に猟に出た際に富士にあたる朝日を描き、和歌を詠んだものが残されています。

里はまだ 夜深し富士の 朝日影

夜明け前のもっとも暗い時期にあって時代に翻弄されながらも、多くの仕事を成し遂げた英龍のことを最も理解していたのは地元韮山の人々でした。この一連の話の最初に触れましたが、韮山の方々の「江川愛」が感じた伊豆旅行でした。

江川太郎左衛門英龍の話は以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。