ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。
幕末、ロシアのプチャー
クリミア戦争の影響もあって、東アジア一帯を転々としながらの航
この項ではペリーの浦賀来航以上に幕府を驚愕させた、嘉永七年(=安政元年:185
日本史ではあまり紹介されることはないものの、天保山沖への来航が大騒ぎになるのも当然のことでした。
ペリーが停泊した浦賀は三浦半
驚いた大阪城代は、大坂町奉行、船奉行などの配下に命じて、天保山が面した安治川河口に大小の船を並べさせます。ディアナ号の上陸や川を遡上することを阻止するためで、そのために5000艘以上の舟が駆り出されました。また警備のための人員は、大坂に蔵屋敷を持つ約100の藩の中で89の藩と旗本が4家から集められ、全部で約1万5千人が天保山を本陣として、周辺の沿岸一帯に陣を敷きました。
大阪にこれほどの規模で陣が敷かれたのは、大坂夏の陣以来であったかも知れません。プチャーチンが大阪に現れたのは、長崎での交渉進捗の遅さにいら立ち、天皇の住む京都に近い「聖域」に入っていくことで、早々にロシア側のペースで提案に応じると予測したためです。しかし、幕府からは交渉地を下田として指定され、16日の滞在の後、ディアナ号は大阪を後にしました。