おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「防備に何が要るやろか?」「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。

幕末、ロシアのプチャーチンが、日本と国交を結んだ(日米和親条約)話は、江川太郎左衛門英龍のところでご紹介しました。
クリミア戦争の影響もあって、東アジア一帯を転々としながらの航海であったことも述べましたが、プチャーチンの率いるロシア船が日本で来航した場所は、長崎・箱館・大阪天保山沖・下田という順です。(戸田には滞在しましたが「来航」ではありません)


この項ではペリーの浦賀来航以上に幕府を驚愕させた、嘉永七年(=安政元年:1854)9月の大阪天保山沖への来航と、その後、大阪周辺で大阪湾海防のために築造されたお台場をいくつかご紹介したいと思います。
日本史ではあまり紹介されることはないものの、天保山沖への来航が大騒ぎになるのも当然のことでした。

ディアナ号は天保山の沖、約4~5kmのところに停泊しました

ペリーが停泊した浦賀は三浦半島の先、侵入したといっても神奈川県の南端で、江戸までの距離も50km以上ありました。一方、プチャーチンは「天保山沖の40丁から50丁沖」といいますから、大阪湾のど真ん中に入り込まれてしまっています。

驚いた大阪城代は、大坂町奉行、船奉行などの配下に命じて、天保山が面した安治川河口に大小の船を並べさせます。ディアナ号の上陸や川を遡上することを阻止するためで、そのために5000艘以上の舟が駆り出されました。また警備のための人員は、大坂に蔵屋敷を持つ約100の藩の中で89の藩と旗本が4家から集められ、全部で約1万5千人が天保山を本陣として、周辺の沿岸一帯に陣を敷きました。

大阪にこれほどの規模で陣が敷かれたのは、大坂夏の陣以来であったかも知れません。プチャーチンが大阪に現れたのは、長崎での交渉進捗の遅さにいら立ち、天皇の住む京都に近い「聖域」に入っていくことで、早々にロシア側のペースで提案に応じると予測したためです。しかし、幕府からは交渉地を下田として指定され、16日の滞在の後、ディアナ号は大阪を後にしました。