おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」3

品川台場を含め、これまでご紹介してきた台場は、、土塁や石垣が残っているだけなので、だいぶ想像力を働かさないと往時の姿をしのぶことができません。石垣だけで天守閣や櫓のない城跡のような感じでしょうか。

今回ご紹介する西宮砲台は、この場所に1基造られ、砂浜にいきなり砦が現われた唐突感があるものの、存在感を示しています。

浜(海)側から見た西宮砲台

高さ約12m・内径約17m・周囲53mという大きなもので、花崗岩御影石)を積み上げて造られています。表面が漆喰で塗り固められているので、一見するとコンクリートで固められた要塞のようにも見えます。

西宮砲台の案内板

西宮砲台の建設が始まったのは文久三年(1863)のこと。

日米修好通商条約など、安政五か国条約が結ばれたのが安政五年(1858)のことで、横浜・長崎・箱館の3港が翌年開港されています。が、国内で攘夷の機運が高まっていったことはご存知の通りです。

長州藩が下関(馬関海峡)を通る外国船に砲撃を加えたことから馬関戦争が、薩摩藩でも薩英戦争が勃発したのが、文久三年(1863)という年でした。

砲台の建設は勝海舟の指導の下、ここ西宮の他、今津(同じ西宮市内)、和田岬(神戸市兵庫区)、舞子(神戸市垂水区)に同じような砲台の築造が開始されました。

基礎工事として1,541本もの松杭が打ち込まれました。品川台場の項でも述べましたが、松に含まれている松脂が腐食に強いことから、基盤の杭には松材を用います。

外壁部分の石材である花崗岩御影石)は、備中国岡山県)の瀬戸内の島々から切り出されて海路で運ばれています。(「御影石」というくらいなので、神戸の「御影」で産出するのですが、御影から西宮までは陸路での運搬が必要で、海路より効率が悪かったようです)

内部は3層になっていて、1層部分は中央に防火用(もしくは砲身冷却用)の井戸が掘られ、床板敷の弾薬庫が設けられていました。

2層目には四角(方形)の穴が12個空けられています。11個は砲眼(大砲で四方を狙うための穴)で、残りの1個は外部より指示を受けるための窓となっています。ちなみに3層目の役割はというと、色々調べましたが結局はわかりませんでした・・

2層目に開けられた穴 中央の縦長なのが連絡用の窓でしょうか

この砲台には2門の大砲が据えられ、砲眼から砲口を向けて攻撃を行う構造です。

完成したのは慶応二年(1866)のこと。完成早々に空砲で試し撃ちを行いました。

が・・・砲煙が内部に充満してしまい、実戦には向かないことが判明してしまいます。そして実際に使われることのないまま(それでよかったのですが)明治維新を迎え、大正十一年(1922)に国の史跡に指定され、現在に至っています。

存在感はありますが存在意義はちょっと疑問な砲台です。次回は「海辺にない」台場をご紹介します。