おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蒸気機嫌で乗り乗り5

ちょっと話は変わりますが、学生時代は京都に、また会社に勤めてからは異動の中で新潟に住んでいたことがありました。この二つの都市に共通するのは、JRの駅と繁華街が離れていること。これらに限らず、鉄道の草創期に作られた地方都市には、繁華街と駅が離れているケースが散見されます。

これは、繫華街では元々空き地が少なく、また蒸気機関車があげる黒煙や振動の害から、反対運動も起こるため、鉄道用地を確保するのが大変だったことによります。

新橋~横浜間の鉄道建設についても、品川から神奈川までは農耕地がほとんどであったため、用地の取得は比較的容易でした。困難を極めたのは、芝高輪町近辺です。

東海道の江戸への入口、高輪大木戸の跡

当時、東海道は海沿いを通っており、この辺りの土地を所有していたのが兵部省(ひょうぶしょう)でした。今でいうと防衛省のようなものですが、この時期は現在とは比べ物にならないほど国防意識が強く、兵部省の持つ権力も相当なものです。当時の兵部省には西郷隆盛を始め、「膨大な予算を使って鉄道を建設するより、軍事を優先させるべき」と鉄道建設への反対が根強く、所有地の供出を認めません。

高輪ゲートウェイ駅周辺は海でした  地図右上の「大木戸」が高輪大木戸です

落語に「品川心中」という演目がありますが、この辺りは遠浅の海岸が続いています。大隈重信や、工部権大丞として日本側の鉄道建設の中心であった井上勝は、高輪から品川までの海を埋立てることにしました。これにより兵部省から土地を習得する必要もなく、沿線にもたらす悪影響もなくなります。

北は本芝から南は品川までの海上約2.7kmにわたって「高輪築堤」(たかなわちくてい)が築かれました。この工事は容易なものではなく、一度堤として盛り上げた土砂が波に流されてしまい、築堤が崩壊、再度工事を行なうこともあったといいます。

一方、横浜周辺では、「鉄道狂」と呼ばれた人物が、この地域の埋立工事を一手に引受けています。その話は次回以降に。