おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

占わナイト ヨコハマ~♪3

5年の獄中生活の後、慶応元年(1865)に「江戸所払い」を命じられた高島嘉右衛門、ここでこの刑罰について触れておきます。江戸の境界を示す「大木戸」が品川(高輪)、板橋、千住、本所、深川、四ツ谷の6ヶ所に設けられていますが、この大木戸の外に追放されるというのものです。

この追放令により、嘉右衛門は横浜に行き、そこで材木屋を開きました。新たな商売を始めるより、これまでやってきて勝手知ったる仕事に就いたわけです。材木商を通じて、リチャード・ブリジェンスという建設技師と親しくなります。

ブリジェンスは、後に新橋・横浜駅を設計することになります

そこで西洋式建築を学び、イギリス公使パークスとも知りあい、その紹介でアメリカ公使館の新築工事を請け負います。その工事の出来がよく、横浜の外国人からの建築依頼を引き受けるようになり大いに利益を上げました。この外国人との交流の中で、嘉右衛門の中には横浜に鉄道を作りたいという気持ちが生まれ、それは次第に強くなっていきました。

慶応三年(1867)、嘉右衛門は関内の尾上町に、和洋折衷の旅館「高島屋」を建設します。翌年元号が「明治」と改まると、「高島屋」は外国人や明治政府の高官などの交流場としても大盛況となりました。

明治二年(1869)、大隈重信伊藤博文高島屋に宿泊した際、嘉右衛門は持論の鉄道建設必要論をまくしたてます。

「日本南北八百里を歩けば、一日十里として八十日かかる計算ですが、鉄道が敷かれれば、三日半で行けます。それにより交通は便利にあり、人だけでなく物の行き来も盛んになります。そうなれば日本国内の物の値段も平均化します。県の数も減らせるので国の経費も抑えられるでしょう。また、一朝有事の際にも軍隊や荷物の輸送が円滑に進みます。更には、維新で職を失った士族を鉄道敷設に動員すれば、失業者を減らし国も富みます。」

そして実際に、ホレーシオ・ネルソン・レイと契約して個人での鉄道敷設を考え、嘆願書を提出します。すでに国の事業として鉄道敷設を考えていた大隈は仰天、嘆願書は却下されます。

しかし、嘉右衛門の熱意を知った大隈は、後に鉄道事業への参加を打診します。これに対しての嘉右衛門の返事は次回に。