おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも2

東海道線が各区間の路線を伸ばし最終的につながるまでの十七年間、それ以外の地域での鉄道建設はどうなっていたかをご紹介します。

東海道線全開通の八年前、明治十四年(1881)に発足した「日本鉄道会社」が最初に計画したのは、東京~高崎~前橋の路線でした。その際の東京の起点として予定されたのは品川駅です。

品川から赤羽を経て川口というのが東京側の当初ルート計画だったのですが、地形的にアップダウンが多く、工事の効率から見て難があったため、上野の地を東京側の起点とすることになりました。このあたりが明治維新後、寛永寺の寺領から官有地となっていたこともあって土地を得やすいという利点もありました。

明治維新寛永寺は寺領を没収され、本堂を現在に位置に移しました

明治十六年(1883)7月26日、上野~熊谷間が完成しましたが、このとき上野駅はまだ建設中で仮駅舎での開業でした。駅完成は二年後のことで、すでに線路は熊谷の先の高崎・前橋まで延伸していました。

つまりこの時代、東京は北に向かう上野駅、西に向かう新橋駅という二大ターミナルが存在していたわけです。しかし、両者の間はどのように行き来していたのでしょうか。

人力車や馬車が一般的でしたが、江戸から東京に至る過程の狭い道幅に、人だけでなく、人力車や馬車までもが行きかうと、混雑して進まないばかりか事故まで起きてしまいます。そこで専用のレールを道路上に敷き、その上を馬車が走る「馬車鉄道」が導入されました。東京馬車鉄道株式会社が明治十三年(1880)に設立され、明治十五年(1882)6月に新橋~日本橋間、10月には日本橋~上野~浅草~日本橋を循環する路線が開業しています。

上野駅の完成した時には、新橋との間に鉄道馬車路線が整備されてはいたわけです。新橋~上野間は6km弱といったところですが、50分かけて運行されたようです。若干便利になったとはいえ、使い勝手が良いとはいえません。両者の間を鉄道路線で結ぼうという計画が起きるのは当然と言えます。

東京駅開業の話、続きます。