おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも3

上野~新橋間を結ぶ馬車鉄道は、道路上にレールが敷かれているため、見物人が線路内に立ち入って接触事故を起こすこともしばしばでした。一番問題となるのは馬の排せつ物による臭気だったといいます。こうした「公害問題」の解決に東京府知事が乗り出します。

明治十七年(1884)に当時の芳川知事が内務卿に上申された意見書には、

・道路が狭いところに馬車に人力車、鉄道馬車で、人々の通行が危険にさらされている

という問題点から都市計画についての意見が述べられ、鉄道計画についても

・鍛冶橋内に中央の停車場を設ける

という方針も示されていました。

「鍛冶橋内の中央停車場」というのが、現在の東京駅を示しています。この意見書が内務省内で検討されていきます。

江戸時代末期の江戸の地図 右下の橋が「鍛冶橋」にあたります

地図に書かれているように、「鍛冶橋」は丸の内ICのあたりに架かっていた橋で、そのあたりは現在の「丸の内」にあたります。江戸時代には外様大名を中心とした屋敷が立ち並んでいました。地図には「松平」とあって徳川家一族のように見えますが、その後に(池田)とか(山内)と書かれているのが、私たちの知っている大名家の名字です。

明治維新後、これらの屋敷は主人がいなくなり、新政府の役所や政府高官の住居、皇居警備の近衛兵の宿舎などになっていました。

明治五年に起きた火災により、この辺りは一度焼け野原となり、その後明治十年代には警察や司法関係の役所や陸軍関係の施設が建てられたのでした。しかし陸軍にとってはこの辺りは狭いことと、繁華街があった下町に近いことから兵隊の風紀取締が必要になっていたことから、明治十七年(1884)には東京鎮台歩兵第一連隊が赤坂檜町に移転しました。近年まで防衛庁が使用し、現在は東京ミッドタウンとなっている地域です。更に二十二年(1889)の歩兵第三連隊の移転先(麻布)の兵舎建設費用のため、丸の内の土地を民間に払い下げることが決められます。

この土地を得ようと手を挙げたのは・・その話は次回で。