おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも5

そもそも皇居の近く、東京のど真ん中という一等地の入札が不調に終わるとは信じがたいように思えますが、それは今だから思える話。皇居に近すぎることで建築基準が厳しく、価格に対しての価値が見出だせなかったのだと言われます。コストパフォーマンスが低い土地、ということでしょうか。
しかし、ロンドンの現地でオフィス街の繁栄を目の当たりにした荘田は、「丸の内こそオフィス街となるべき場所だ」と直感したのです。
この弥之助による丸の内買上げは、「三菱の三大買い物」と後に呼ばれるようになります。ちなみに後の2つは兄弥太郎によるもので、上海航路と高島炭鉱でした。
明治二十三年(1890)の買上げ当時、当面の開発もできず、広大な土地は「三菱が原」とも「賭博が原」とも呼ばれました。前者は言わずもがなですが、後者は高く生い茂った草木に隠れて、人力車夫たちが賭事に興じていた、というのが由来だそうです。
弥之助はこの土地の使い道を問われて、「竹林にして虎でも飼うか」とうそぶいたという話が伝わっています。

しかし荘田の目論見は当たりました。
明治二十二年(1889)に東京府はそれまで内幸町にあった庁舎を丸の内(現在の東京国際フォーラムの場所)に移転し、二階建煉瓦造りドイツ風の庁舎を建設することを決めます。

現在の国際フォーラム ここに東京府庁舎がありました

三菱は買い占めた土地の一部を東京府に寄付し、庁舎前に幅20間(約36ⅿ)の広さを持つ道路(馬場先通り)を造りました。

また、この道路を隔てたところに、明治二十五年(1892)、洋風貸事務所建築三菱でも洋風煉瓦建築の建設を開始しました。この前年に民間の建築事務所を開設していたイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルが設計を担当しました。元はお雇い外国人として政府に仕え、上野博物館や鹿鳴館など政府関連の数々の建物の設計した人物です。

明治二十七年(1894)妻木頼黄の設計した府庁舎が完成したのと同じ年に、コンドルの設計した第一号館(後に三菱一号館)も完成します。

三菱一号館 平成二十一年(2009)に復元され、美術館となっています

軒高50尺(約15m)地上三階・地下一階、当時としては異例の大型建築でしたが、入口(玄関)がいくつにも分かれた設計になっています。この建物は貸事務所建築で、テナントごとに事務所スペースだけでなく、玄関・階段・トイレを独立させています。これは事務所とはいえ自社(自店)のスペースは他社(他店)と共用せず占有したい、という当時の入居者の価値観を尊重したものだそうです。

これを皮切りに翌年に二号館が完成するなど、洋風建築が丸の内に建てられていきますが、それと東京駅の話は次回以降に。