おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも7

辰野金吾嘉永七年(安政元年 1854)に九州唐津藩の下級役人の次男として生まれ、叔父の養子となって辰野姓を名乗ります。明治六年(1876)に工部省工学寮に入学します。この工部省工学寮は、「蒸気機嫌で乗り乗り」の項でご紹介した「日本の鉄道の恩人」、エドモンド・モレルの提言によって設置された工業系教育機関で、辰野はその一期生でした。

中央停車場(東京駅)を設計した辰野金吾

といっても最初は造船の方面を目指していたようですが、入学して二年後、造家(建築)へコース変更します。明治十年(1877)工部大学校造家学教授として着任したのが、ジョサイア・コンドルでした。二年後、造家学科を首席で卒業しています。

また、明治十七年(1894)にコンドルの教授退官後に工部大学校の教授となったのは、一番弟子といえる辰野でした。

明治三十五年(1902)辰野は教授の職を辞し、翌年葛西萬司をパートナーとして「辰野葛西建築事務所」を立ち上げたところに、バルツァーの後任として中央停車場の設計を担当することになったのです。辰野はバルツァー案を「赤毛島田髷」と酷評しています。西洋人が物珍しさから日本的なものを取り入れてはいるものの、西洋人の日本趣味に過ぎず、不格好であると一刀両断したものです。(バルツァーとしては、日本の玄関口、ということで、日本的なイメージを表に出そうという意図だったと思われ、この評価は少しかわいそうな気もしますが・・)

ただし、建物の配置という点についてはバルツァーの構想を引きつでいます。辰野の建設案は全部で3つ作成され、1・2案は西洋的なデザインと装飾を取り入れながらも、建物はほぼ平屋という若干ショボい(失礼)なデザイン案でした。後の辰野の弁明によると、当初の建築予算が42万円という縛りがあり、その範囲では壮麗な建築は不可能で、おのずとそういった設計案になってしまった、ということです。

最終的に第三案が採用されるわけですが・・

しかし設計案作成中の明治三十八年(1905)、建築予算が一気に増額されるきっかけとなる事件が発生し、辰野は現在の東京駅のデザインを設計することができたのでした。

その事件とは、次回に続きます。