おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも8

その「事件」とは、日露戦争での勝利でした。この年5月の「日本海海戦」において、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を撃破し、6月の米大統領による講和勧告を日露両国が受諾、9月5日の日露講和条約ポーツマス条約)調印で正式に戦争が終結します。

「大国ロシヤを負かした日本にふさわしい、世界があっと驚くような駅を作れ」というのは明治四十一年(1908)内閣鉄道院初代総裁となった後藤新平の言ですが、日露戦争勝利直後からそうした機運が盛り上がっていました。当初42万円であった予算は、最終的に5,6倍に膨れ上がり、辰野は第三案として全て三階建ての壮麗な設計を最終案とすることが出来ました。

中央停車場 建築当時の写真(東京ステーションギャラリー

この設計完了は明治四十三年(1910)12月のことでしたが、駅舎本体の基礎工事が開始されたのが、明治四十一年(1908)3月といいますから、設計途中の段階で着工した、ということになります。見切り発車したのは明治四十五年(1912)に日本大博覧会の開催計画があり、なんとしてでも玄関口として間に合わせよう、という思惑がはたらいたもののようです。(最終的にこの計画は財政難で没になりました・・)

さて、この着工当時の丸の内はというと、三菱〇号館は十三号までが建てられ、その向かいに東京商業会議所が建っています。赤レンガの建物の建つ界隈は「一丁倫敦」(いっちょうろんどん)と呼ばれるようになります。その周りもさぞかし賑わっていたように思えますが、駅完成当時のジオラマ東京ステーションギャラリーに展示されていますが、案に相違して寒々としたものです。

東京駅完成当時の丸の内 右側の建物の集合したところが「一丁倫敦」

一丁とは長さの単位で、60間=360尺、すなわち約109mにあたります。一丁四方にあたる部分だけは西洋風のオフィス街でしたが、駅の真ん前などは全く未開発だった、ということがわかります。

駅建築の話、続きます。