おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

線路は続くよ東京までも10

中央停車場(東京駅)の完成の話の前に、上野~新橋を結ぶ鉄道の話に触れます。

遡って整理すると、新橋を起点とした現在の東海道線(官営悦道)と上野を起点とした現在の東北本線(日本鉄道株式会社)の間を結ぶ鉄道の計画は明治二十一年(1888)からありました。新橋駅と上野席の間に市街を縦貫するため高架鉄道を建設するというもので、この中間となるのがそのものズバリの名前、「中央停車場」でした。

この計画は、日清・日露戦争の影響で大きく遅れてしまいますが、前述したように日露戦争の勝利で駅建設のグレードがアップする、という効果?ももたらしました。

当初の高架案を作成したのがドイツ人技術者のヘルマン・ルムシュッテル、それを継いだのが同じドイツ人のフランツ・バルツァーでした。バルツァーは中央停車場の最初の設計案のところで紹介した人物です。

この路線ですが、「先に新橋から永楽町(現在の東京駅の少し北側にあたります)まで伸ばそう」ということで「新永間市街線」と呼ばれます。ちなみに「新」は新橋の「新」ではなく、現在の浜松町の少し北側にある「新銭座」の「新」と「永楽町」を結ぶ、というのが由来です。

新橋と浜松町の間にある高架橋 どこにでもある感じですが

上の写真、高架橋の壁に貼られた紙を見てみると・・

「新銭座ガード」とありました

このあたりから現在の東京駅の少し北側までの高架下がこのころ作られたということになります。

この路線の建設は明治三十三年(1900)年から始まり、明治四十二年(1909)、まず最初に浜松町~烏森が開業、烏森というのが現在の新橋駅にあたります。(当初の新橋駅はのちに汐留駅に名前を変えます)翌年6月に烏森~有楽町、さらに同9月に有楽町~呉服橋仮停車場が開業しました。

有楽町~新橋の高架(ガード)は何気なく横を通ってしまいますが、よく見ると相当の歴史の年輪が感じられます。

こんな歴史あるものにスプレーの落書き・・

この高架のアーチ橋に使用されている煉瓦は、東京駅に使用されているのと同じ、日本煉瓦製造で製造されたものでされたもので、約5400万個使用されているそうです。

ガード(高架)の内側を通る通路には飲食店が並びます

経年劣化や落書きなど、東京駅に比べて華やかさに欠ける高架ですが、この間日本の交通を支え続け、現在もその役割を果たしているのです。

新永間市街線の話は以上で終わり、次回中央停車場の話に戻ります。