おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

にらみが菊2

「団子坂」というのは、地下鉄千代田線の千駄木駅から西に本駒込まで伸びた道路にある坂です。ちなみに江戸川乱歩明智小五郎を初めて登場させた「D坂の殺人事件」の「D坂」は、ここ団子坂を舞台としています。

youtubeで「団子坂 菊人形」と献策すると、文京区の公式チャンネルでその歴史を紹介しています。それによると、幕末あたりから歌舞伎の演目を題材に見世物興行を行っていましたが、いったん明治維新で中断されました。

が、明治九年(1877)東京府から正式に許可を受け、木戸銭を取って正式に興行として認められたところからさらに隆盛を極めたそうです。ちなみに木戸銭=菊見料は3厘でした。1銭=10厘ですから、庶民にとってお財布にやさしいレジャーだったのではないでしょうか。

笠間稲荷神社境内に飾られた菊人形

森鴎外夏目漱石の作品の中にも団子坂の菊人形の様子が描かれており、それだけ浸透したイベントであったことがうかがわれます。

明治20年代から30年代に団子坂での興行は最盛期を迎えます。植惣、種半、植梅、植重の四大園がその出し物を競い合いました。出し物は従来の歌舞伎の名場面の他、時事ネタも扱ったといいます。今でいうと、実録ドラマの場面を菊人形で再現したと考えればイメージがつかみやすそうです。

同じく笠間稲荷神社の菊人形「神宮大麻暦頒布始祭」

しかし、より大規模で斬新な興業が開催されたことで、団子坂の菊人形は衰退に向かいます。明治四十二年(1909)、名古屋で菊人形興行を行っていた「黄花園」が東京に進出、両国国技館で菊人形の興行を開催したのでした。21回場面が変わる“21段返し”を実現させるなど、電気照明や活動写真の弁士の語りを加え、さらには踊り子によって「花を添える」趣向が凝らされたといいます。おそらく、当時の庶民は度肝を抜かれたことでしょう。

この興行により団子坂の菊人形興行は衰退、廃業を余儀なくされます。一方両国の他、大阪、名古屋等でも大掛かりな菊人形興行が開催されるようになりましたが、戦後レジャーの多様化によってこれらも衰退していきました。この項の最初にご紹介した阪神パークの菊人形展も昭和50年代には開催されなくなりました。(正確な年代は覚えていません)

関西で最も有名なひらかたパークの大菊人形も、平成十七年(2005)に人形を制作する職人の高齢化と後継者不足や来園者の減少を理由に毎年の興行としては閉幕しました。(現在でも市民ボランティアによって菊人形の制作は続けられているようです)

都内では湯島天神境内で「菊祭り」が開催され、今年は「鎌倉殿の13人」から3体の菊人形が展示されたそうですが、行きそびれてしまいました。来年は是非菊の盛りに拝見したいものだと思っています。

菊の話は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。