おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

待つの労苦

赤穂事件は2つの大きな事件を一くくりにしています。

赤穂藩主、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城の「松の廊下」で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に切りかかった事件。

1年9ヶ月後、赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)ら家臣47人が本所の吉良邸に討ち入り、上野介らを討った事件、の2つです。

天守閣跡にある江戸城の地図 「松の大廊下」は上方にありました

この事件は元禄十四年(1701)3月14日に起りました。江戸幕府において、儀式・典礼を司る役職を高家(こうけ)といいますが、吉良家はその職に就くことのできる格式のある旗本です、赤穂藩5万3000石に対し、吉良家は4200石と、一割以下の石高ではありますが、朝廷からいただく官位は内匠頭が従五位下諸大夫なのに対し、吉良は従四位上左近衛権少将と、高い官位にありました。

事件が起こった江戸城内の「松の大廊下(まつのおおろうか)」は、本丸御殿の大広間から白書院(将軍との対面はここで行われていました)をつなぐ廊下をいいます。全長50m、幅4m程の畳敷きの廊下で、襖に松と千鳥の絵が描かれていたことからこの名前がありました。

松の大廊下の案内板

その日は「勅答の儀」といい、五代将軍綱吉が、ときの帝東山天皇からの勅使に対してご返事を差し上げる日でした。  
幕府の行事の中でも、最も格式が高いと位置づけられていた日です。下向された勅使の饗応役(接待役)を命じられたうちの一人が浅野内匠頭、吉良上野介はその指南役でした。よりによってこの格式の高い日に、浅野内匠頭江戸城内のこの場所で吉良上野介に斬りつけるという行為に出たわけです。

皇居内の「松の大廊下跡」

そのいきさつについては後に述べるとして、将軍綱吉は、即座に饗応役を免除、身柄を奥州一関藩田村建顕のもとに預け、その日のうちに切腹を命じたのでした。大名に対しての措置としては異例なことで、綱吉の激怒ぶりがわかります。綱吉は歴代将軍の中で尊王ぶりが高かったことが知られており、将軍としての面目が潰された、というところでしょうか。
浅野内匠頭もこのとき三十半ば、分別があればこのような行為に及ぶはずもないのですが、次回はそれまでのいきさつなどをふりかえってみたいと思います。