おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

待つの労苦4

いじめの原因となっているのが「賄賂」となっていて、いかにも吉良が強欲な印象を受けますが、コンプライアンスの厳しい現在と異なり、江戸時代は指南を受ける側が指南者に付届けを行うのは慣例でした。

浅野が饗応役を命じられるのはこれが初めてでjはありません。天和三年(1683)にも同様に勅使饗応役を務め、その時の指南役も同じ吉良でしたが、この時は何の支障もなく役目を果たしています。18年後の元禄十四年(1701)年二度目の饗応役、前回のノウハウが残っており、浅野にすれば、指図役に教示を請わなくても何とか役目を果たすことはできる、と指南役を軽く見て付届けを怠った、あるいは惜しんだ、という可能性も否定はできません。

吉良上野介像(本所吉良邸)

また、「金銭問題」という点では、「例年1200両かかる勅使饗応役の費用を、長矩が700両しか出さなかったため、長矩と義央が不仲になった」という話もあります。前回と同じくらいの支出で役目を果たせると浅野側では見積もっていたのに対し、諸物価が高騰していた当時、実際には2倍近い金額がかかるものを出し惜しんだ、ということのようです。上の話は、赤穂藩士複数名の俳句の師匠にあたる間沾徳(みずませんとく)というという人物が遺したもので、浅野家に近い人物の期日であることから信憑性が高い、とされています。

ちなみに最初の饗応役の際、赤穂藩の支出は四百両ほどでした。元禄時代はいわゆる高度経済成長期で物価は上がり、貨幣の価値は下落していました。先の「1200両」というのは、元禄十年(1697)に饗応役を務めた伊藤出雲守の支出で、更にそこから4年経ち、かかる費用はさらに上がっていた、と想像できますが、赤穂藩はそれを倹約で何とかしよう、と考えたのでしょうか。

しかし、二度目の饗応は将軍綱吉にとって、例年より大事な意味がありました。生母である桂昌院に朝廷から正一位の位を授かるように運動していた最中であったからです。そうした大事な意味を持つ饗応の支出を惜しんだとすれば、浅野内匠頭のみならず、赤穂藩の政治的感覚は鈍い、と吉良ではなくても非難したくなるところかも知れません。

事件の原因の話、続きます。