内藤忠勝は切腹を命じられ、志摩藩はお取潰し(改易)、継嗣もなく御家断絶
さて、「精神病」の件ですが、忠勝はいわゆる「癇癪持ち」、短気で怒りっぽく爆発する性格だったようです。忠勝は次男で、本来であれば兄の忠次が藩主の座に就くところでしたが、病により忠次が廃嫡されたことにより藩主となったいいさつがあります。
廃嫡の理由となった病が、精神障害であったと推測して、忠勝にもその障害があったのではないか、とされているのです。そして浅野内匠頭の母親は忠勝の姉にあたり、浅野も「癇癪持ち」というところから「遺伝説」が生まれてきました。
得力のありそうな説ではありますが、結局は推測の域を出ない、
真相は現在でも闇の中、ということで色々な新説がこれからも出て
さて、すでにご紹介の通り、内匠頭は即日切腹、赤穂藩はお取り潰
このテーマの最初に出てきた「切腹最中」のあたり、一関藩田村建
田村邸に到着したのが申の刻(16時半頃)、部屋に通された内匠頭は、城内で着用していた着用していた大紋を脱がされます。その後、1汁5菜の料理が出されますが、内匠頭は湯漬けを2杯所望しました。この段階で、田村家には切腹の処分は知らされておらず、当分の間その身を預かるものと考えていたようです。そのため、座敷のふすまを釘付けにするなどしていたといいます。
申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役、大目付役庄田安利、副検使役として目付・多門重共と大久保忠鎮が到着、内匠頭に正式な処分を伝えます。「内匠頭は切腹、赤穂藩は改易」それを聞いた内匠頭は・・以降は次回に。