おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

赤穂は野となれ山となれ3

幕府からは改易となった以上、早く城を明け渡すよう要請されており、また浅野本家(広島藩)や親族の大名からも抵抗することなく明け渡しを、という使者が遣わされています。一方で藩士から出た意見で多かったのは、籠城する、という勇ましい意見でした。これは、改易そのものを認めない、という武力行為ではありません。「喧嘩両成敗」という当時の法理論からすれば、当方(赤穂藩への処分(改易)はやむを得ないとするものの、もう一方の当事者である吉良側にお咎めがないのは納得できない、という主張を籠城によって示そうというものでした。また次席家老の大野九郎兵衛らはおとなしく城を明け渡そう、という恭順派でした。
大石としては、籠城は公儀(幕府)の命に背くことになるため畏れ多く、一方でこのまま恭順・開城すると「吉良家へのお咎めなし」という処分をも認めることになり、藩士たちの不満を抑えることができない、というジレンマがありました。

大石内蔵助像(高輪泉岳寺

結果大石が下した当初の結論は「赤穂城の前で切腹」というものでした。切腹の際に各々が思うところを述べれば、幕府も吉良への処分・処罰を再考してくれるのでhないか、と考えたからとされています。また一方で「切腹」を持ち出すことで、命を投げうつ覚悟のない藩士を振るい落とそうとした、という説もあります。実際に切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余りが提出しました。が、最終的に切腹という手段を取らなかったのは、恭順派であった大野九郎兵衛らの意見が影響したようです。

内匠頭の弟にあたる浅野大学の身こそが大事であり、籠城や切腹は大学の立場を悪くし、迷惑がかかる、というのがその意見でした。

これらの紆余曲折を経て、4月12日、大石は最終的に赤穂城の明け渡しを決断します。その後藩の負債の返済や藩士への分配金の支払いなどを進めていきました。分配金について、大野九郎兵衛が石高に応じて配分すべきと主張したのを退け、微禄の者に手厚く配分する方針をとっています。

赤穂城の引渡しは4月19日に完了し、5月18日には全ての書類引継ぎが終了しています。かくして赤穂藩士たちは「浪人」となったのでした。

ここから討入りまで1年半余について次回からご紹介していきます。