おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

中心グラグラ2

12月に京都山科に戻った大石ですが、この頃から廓での放蕩が激しくなったとされています。これが世の中を欺くためだったのか、本当に楽しんでいたのかについては色々説のあるところです。ちなみにこれらの遊興費は前回ご紹介した「御家再興総予算」を使ったわけではなく、あくまで大石の自腹だったようです。

「一力茶屋」は祇園の中でも最も格式が高いといわれる「お茶屋で、門構えにも風格があります。「仮名手本忠臣蔵」では、大石(大星由良之助)が、二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開き、太鼓や三味線を囃させ騒いでいる様が描かれます。

祇園お茶屋「一力亭」

3人の浪士が大石の元を訪ね、余りの放蕩ぶりに呆れますが、実は敵(吉良)方の目を欺く芝居であったことが知れる一段です。大石が実際にここで遊興したかについては疑問が残りますが、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃の舞台となったお茶屋が今も現存して営業している、と考えると門構えの風格が増すような気がします。
映画「決算!忠臣蔵」では祇園というより伏見あたりの情景が描かれていましたが、大石の住まいが山科であったことを考えると、がそちらのほうがより真実に近いのではないでしょうか。
一方、吉良側では12月11日、主君の仇、吉良上野介義央の隠居が幕府に認められ、嫡男の義周(よしちか、よしまさ、とも)に家督を譲ることとなりました。これが江戸にいた急進派を焦らせることになります。米沢藩上杉家に隠居した上野介が引き取られてしまう可能性があったからです。

このあたりの関係について少し説明が必要です。跡目を相続した義周は、実際には上野介の孫にあたります。赤穂事件から三十数年前の寛文4年(1664)に、米沢藩主上杉綱勝が継嗣のないままこの世を去ったことで、米沢藩断絶・改易の危機がありました。その際、綱勝の妹と吉良の間に生まれた男子が末期養子の形で上杉家に入り、米沢藩主上杉綱憲となりました。綱憲の次男、春千代が今度は吉良家の養子となり、今家督を継いだ、というわけです。隠居したことにより、米沢藩が実父を引き取ってしまうと、4200石の吉良家ならともかく、15万石の米沢藩では手の出しようがなくなります。

江戸急進派の焦りはそこにありました。討入りまでの葛藤が続きます。