おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

肥後の庇護

一行は虎ノ門にあった仙石伯耆守の屋敷まで護送され、事情聴取を受けた後、各藩に移動しています。引渡先の藩ごとに浪士たちを分け、細川、松平、毛利、水野の順に引き渡されました。泉岳寺の浪士の墓も、その際に預けられた藩ごとに並べられ葬られています。

泉岳寺赤穂浪士墓石配置 大石ら細川藩組は右上に

細川家には、大石内蔵助以下17名が白金にあった下屋敷に預けられました。大石の長男、主税は伊予松平藩へのお預けなので、ここで親子はお別れ。下屋敷泉岳寺からだとそう遠くない距離なのですが、虎ノ門仙石邸からの移動であったうえに、しかも細川家は875名もの警護役をつけていました。他の藩でも120名(水野家)、229名(毛利家)、286名(松平家)という物々しい動員をしています。これは吉良の息子の米沢上杉藩が浪士たちを襲撃するのを怖れ、厳重な警備を行ったためでしょう。
大石たち細川藩組は午後十時頃に虎ノ門仙石邸を出発し、下屋敷着いたのは午前二時頃でした。四時間もかかる距離ではないのですが、17名の中に負傷者(太ももに怪我をした近松勘六のことでしょうか)がいたため、傷に触らぬようゆっくりと進んだためのようです。

こんな時間にも関わらず、藩主細川綱利は起きて浪士たちを待っていました。義士たちを一目見たいと到着を待ちわびていたようです。そのまま面会した際に、討入の儀について神妙である、と称え、二汁五菜の料理、菓子、茶を出すように命じてもいます。

日が代わって16日、浪士たちは御使者の間に通されますが、これは相当な厚遇です。

綱利は義士達にすっかり感銘をうけ、幕府に助命を嘆願し、助命があれば預かっている者全員をそのまま細川家で召し抱えたい旨の希望まで出すほどでした。また12月18日と12月24日の2度にわたって、自ら愛宕山に赴いて義士達の助命祈願までしており、この祈願が成就するよう彼らを預かる間は精進料理しかとらなかったといいます。

藩主本人が赤穂浪士の熱狂的ファンだったわけですね。

これに対し、他の藩での扱いはというと・・それは次号で。