おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

てんで腹々

2ヶ月弱お預けとなった赤穂浪士たち、最初の頃は預け先毎に扱いが異っていましたが、藩同士で情報を交換し合ったか、あるいは世評を気にしたか、年明けくらいからは細川家以外の藩でも浪士たちへの扱いは良くなったようです。

細川家では厚遇が続き、浪士から「我ら浪人してから軽い物ばかり食べておりましたが、当家に参ってからは結構な御料理ゆえ、腹にもたれてなりません。唯今は麦飯に塩いわしが恋しくなりました。何卒御料理を、軽い物にお願いしたい」という申入れまであったとか。
さて、幕府より切腹の処分が下ったことが伝えられると、浪士たちは涙したと伝えられています。切腹も斬首も命を落とすことには違いありませんが、斬首は罪人として処刑されるのに対して、切腹は武士として責任を取るための名誉の死と考えられています。そのため、浪士たちの涙は、罪人の扱いではなく武士として死ねることへの慶びのあらわれであったと考えられているようです。
切腹は2月4日のうちにそれぞれのお預け先で執り行われました。4藩に分かれているので、46人が一同に介したりすることはありませんでした。大石内蔵助と息子の主税も肥後細川家と伊予松平家とお預け先が別々でしたので、ドラマにあるような親子の別れの会話、などというものはあり得ないシーンです。。
細川家では3枚、他家では2枚の畳を庭先に敷いて切腹の場所としており、これは切腹の格式として最高の扱いがなされたものでした
大石ら17名が切腹した細川家下屋敷跡には、現在も切腹の場所が残されています。

細川藩邸跡に残る、大石内蔵助切腹の地

切腹場所に掲示された案内板

塀で囲まれ、普段は鉄の扉で閉ざされていますが、史跡として整備され、討入の日などに公開されているようです。訪れた日は公開日ではなかったため、扉の窓から中を拝見。大石らが切腹したとされる場所には石が置かれており、義士の最期の場所が分かっているのは細川邸だけだといいます。(松山藩邸跡や毛利庭園などは残っているものの切腹の場所が明確に残るのはここだけです)
細川家は浪士たちを厚遇していただけあって、切腹の際の記録も他藩より詳しく残っています。それについては次回に。