おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

腹を召しませ 召しませ腹を

細川家で赤穂浪士達の世話役を命じられたうちの一人(接伴役は19名)堀内伝右衛門(ほりうち でんえもん)は、その役にあった三か月弱の間、同じ侍の一人として浪士たちの行動に感動し、単なる仕事でなく積極的に彼らに接し、会話したことを「堀内伝衛門覚書」として記録し、それが現在に伝わっています。

2月4日、切腹の処分が決定し、それらが御預け先の4藩に通知されたのは午前10時ごろと伝わっています。その後、細川家に対しては検使目付荒木十郎左衛門と御使番の久永内記が遣わされましたが、その到着が午後2時頃。

細川藩邸で切腹した17名

藩邸の上の間に集められた17名の浪士たちに、切腹の処分を伝えた後、もう一つ荒木十郎佐衛門が伝えたことがありました。吉良家の当主である吉良義周(きら よしちか/よしまさ とも)に対して、改易と諏訪高島藩へお預けの処分が下ったのです。討入りの際に取った行動が「不埒・不届き」であったという理由です。

吉良家にも同様に処罰が下されたことを聞いた大石が、「落涙の体にて、段々さてさて有り難きことと申され」た、と記されています。

上の間の前庭に畳3枚を敷き、その上に木綿の大風呂敷を敷いて切腹の場所としました。正面にあたる上の間に荒木と松永の上使が座り、正面以外の三方には白幕が張られます。午後四時頃、最初に名前が呼ばれたのが大石内蔵助で、場に向かう大石に、潮田又之丞(上の写真で左から6人目に名前があります)が、大石内蔵助に「皆、追っつけ参ります」と声をかけました。

畳に座した大石の前に小脇差を載せた三方が置かれ、小脇差をとって腹にあてるところで、背後にいた介錯人の御徒頭安場一平が首を打ち落としました。細川藩では浪士1名に対し、それぞれ別の介錯人が任じられています。17人の切腹が終わったのは午後5時過ぎ頃といいますから、一人約3-4分くらい、淡々、整然と切腹が進んだようです。

他の3藩においてもそのような早さで切腹が行われていたようです。

次回は他藩での様子や切腹後のエピソードについてご紹介します。