おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

腹を召しませ 召しませ腹を2

10名の赤穂浪士を預かった長府毛利藩での話を紹介します。毛利藩というと、幕末の長州藩(36万9千石)が思い浮かびますが、こちらは支藩(5万石)にあたります。下の地図(「大江戸今昔巡り」より)では地図の一番下側に「長門府中藩 毛利左京亮」とあります。一方地図の上側に「松平大膳(毛利)」とあるのが長州藩邸。

江戸時代末期の地図では六本木駅の南北に長州藩長府藩藩邸がありました
池のある辺りが現在の毛利庭園と一致します

第3代藩主毛利綱元は、倹約を主とした「天和御法度」を制定し窮民の救済に尽くし、また文芸・和歌をよくした殿様だったようです。

さて、切腹にあたって長府藩では、「扇子腹」として扇子を十本用意させました。本来であれば短刀を用意し、腹に当てたところで介錯人が首を落とす、というのを短刀の替りに扇子を使うものです。しかし、幕府の目付から「それでは打ち首と大差がない」との指摘を受けてしまいます。武士の名誉の死として切腹を命じたのに、それでは罪人の斬首のようではないか、と「小脇差を出すようにというお指図」を受けました。

報道ステーションなどで中継のある「毛利庭園」は長府藩の庭園。
一切の供養塔や顕彰碑の類は存在せず、義士切腹地の場所は「不明」です。

切腹にかかった時間はというと、細川家と同じく一人約3-4分だったようですが、間新六(はざま しんろく)の時、彼は白裃と小袖の上衣を肌脱ぎせず、脇差を腹に突き立て、そのまま横一文字に腹を切りました。筋書き(そのものはないものの、不文律として)にない「本当の切腹」です。介錯人の江良清吉はそれに驚きながらも急ぎ首を落とすと、検視役の斎藤治左衛門らは駆け寄り「見事」と褒め称したと伝わります。

義士切腹後に、藩主綱元は「首尾よく仕舞ひ、大慶仕り候」と慶びの言葉を述べていますが、浪士たちへの誉め言葉というよりも、「あーやっと終わった、よかったよかった」というように聞こえます。というのも、綱元は浪士を収容していた小屋を破却するだけでなく、切腹跡地を清めるよう命じています。「藩邸内のどこで切腹が行われたかわからないようにせよ」との指示でした。

なお、綱元の祖父秀元と父光広の菩提寺は偶然にも泉岳寺でした。しかし綱元本人は江戸で没したにもかかわらず遺体を国元に送り、赤穂浪士と同じ泉岳寺に葬られるのを嫌い、最終的に長府藩泉岳寺は絶縁するにまで至ります。絶縁の原因まではわかりませんが、綱元がこの討入り行為や浪士たちを快く思っていないことは、これらのことから容易に想像がつきます。

次回、赤穂事件のエピソードをまとめます。