岡崎藩水野家(9名をお預かり)や、伊予藩松平家(同10名)で
また、大石内蔵助の長子主税はこの松平家で切腹していますが、介錯人を務めた波賀清太夫は、主税が脇差を腹に当てる 前に首を落としたばかりか、左手で落した首の髻(たぶさ:髪を結いあげた部分)を掴んで首を持ち上げ、目付に見せる、など、切腹者に対しての礼を失したともいえる扱いをしたことが記録に残されています。
さて、話は細川家での切腹の場に戻ります。前にご紹介した旧細川邸の切腹の場、扉のガラスから中を覗くことができます。
藩主細川綱利は、幕府より義士達の血で染まった庭を清めるための使者が訪れた際も「彼らは細川家の守り神である」と断り、家臣達にも庭を終世そのままで残すように命じて、客人が見えた際には屋敷の名所として紹介したともいわれます。
このように赤穂浪士に対して好意を見せた綱利ですが、宝永三年(1706年)、嫡男吉利が家督を継ぐ前に十代で早世すると他の息子たちも後継を残すことができず、綱利の血脈は断絶してしまいます。その後、細川家内でも赤穂浪士への評価が変化し、赤穂浪士の遺髪を頂いて建立した墓や供養施設が悉く破却されました。
切腹跡地も、墓の台座部分(四角い芝台石)と供養塔の残滓(角が丸くなり刻銘が消滅した石)と思われる石の集まりが残るのみです。綱利への評価も、彼のせいで藩財政は破綻寸前となった、旨の記録が残され、ずいぶんな酷評となっています。
4つの藩に別々に預けられましたが、同じ日に切腹した浪士たちはここ泉岳寺に一同に葬られました。その墓前にお線香の煙の堪える日は無いようです。
以上で赤穂事件についての項は終わりです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。