おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

松根込めて

「松明」と書いて「たいまつ」、松脂(まつやに)という言葉が一般的に知られるように、可燃性の樹脂が含まれ、火が着きやすく消えにくいことから、古代から灯りとして用いられてきました。「焚き松」「手火松(たびまつ)」というのが、「たいまつ」の語源だという説もあるようです。
太平洋戦争の末期、石油資源の乏しくなった日本で、「松根油」という松から採れる油を使い、飛行機を飛ばそうとしていた、という話を耳にしました。この機会にその件は実現したのか調べてみました。

零式艦上戦闘機 呉 大和ミュージアム

文字通り、松の切株を乾燥させて熱分解すると取り出せる油を指します。元々塗料の原料などに使われ、昭和十年(1935)頃には年間6000キロリットルの生産量があったそうです。昭和19年頃、原油の調達事情が極度に悪化していたところから、ガソリンの代用(というよりガソリンに混ぜて嵩増しするイメージかも)として増産が計画されました。松根油等緊急増産対策措置要綱が決定されたのが昭和十九年(1944)10月、松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定されたのが翌昭和二十年(1945)3月16日のこと。

原料である松の切株ですが、油に生成するためには土を掘り起こして切株を運搬する作業が必要になります。そのため人出が必要であるにもかかわらず、戦争末期ともいえる時期、動員されたのは高齢者や女性、子供でした。また、切株を処理する乾溜装置も農村地域に大量設置されました。計画前に2,300個強しかなかった装置を約47,000にまで増設して油の生産を行ったといいます。これにより、20万キロリットルの生産を行った、と記録されています。こうして作られた精製前の松根油(松根粗油と呼びました)を一次・二次の精製に水素添加などの処理を施し他の成分を加えて、航空揮発油を製造する計画でした。が、終戦までに実際に作られた完成形の燃料は500キロリットルに過ぎなかったようです。

この油で航空機が実際に飛んだか、というと昭和二十年6-8月頃、北京市の南苑飛行場で、日本から送られてきた松根油を混ぜた燃料を積んで試験飛行を行ったところ、エンジンが詰まり、プロペラが止まってしまいました。そのため「松根油を使うときは、傾斜15度以上の急旋回はすべからず」という命令が出されるはめになりました。

松根油の話、もう少し続きます。