おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

側室!発幸2

お夏の方が懐妊した年は、ちょうど家光の厄年にあたっていました。そのため、生まれてくる男児に災厄がかからぬよう姉の天樹院に相談します。「天樹院」とはかつて豊臣秀頼に嫁ぎ、豊臣家滅亡後は本田忠刻と結婚した「千姫」のことです。

小石川傳通院にある千姫=天樹院の墓

生まれてくるお夏の子を天樹院の養子とすることに決めます。お夏は天樹院の住まい(竹橋御殿)に移り、そこで男児を出産します。男児は「長松」と名付けられ、先にご紹介したように甲府宰相綱重(六代将軍家宣の父親)となります。

お玉の方(桂昌院):関白、二条光平の家司(家政を司る執事のようなもの)の北小路太郎兵衛宗正とされていますが、実際は北小路家に養女に入っていて、実父は八百屋の仁左衛門であるという説が一般的になっています。お玉はお万の方の部屋子として寛永十六年(1639)に大奥に入りましたが、そこで春日局の目にとまって中臈となり、家光のお手がつき、正保二年(1645)正保三年(1646)と男児を出産。先に生まれた男児(亀松)は残念ながら夭逝しますが、後に生まれた児は徳松と名付けられ、のちに舘林宰相を経て五代将軍・綱吉となります。(亀松については、お玉が母親でなく、別の側室、おまさの方であるとする記録もあります)

お夏とお玉は京都の出身で、正室と最も寵愛を受けた側室の部屋子同士という似た境遇にありました。さらには二人とも男児を出産したため、この二人の間には強い対抗意識があり、お玉はお夏から折檻を受けた、という記録も残っているようです。

お里佐の方(定光院):お夏同様、正室鷹司孝子の侍女として大奥に勤めていたところ、家光に見初められ手がつき、正保四年(1647)に家光の五男となる鶴松を出産しますが、鶴松も亀松同様、翌年夭逝します。

結局、家光の五人の男児のうち、成人まで育ったのが三人でした。次期将軍はどうなるのか、それについては次回に。