おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

後継の光景3

四代将軍家綱には正室浅宮顕子(あさのみやあきこ)がありましたが、家綱に先立ちこの世を去ります。側室にはお振の方(家光側室とは別人:養春院)、お満流(まる)の方(円明院)がありましたが、死産・流産によりこの世に生を受けた子はありませんでした。原作の漫画には家綱の治世も描かれますが、このあたりの話は出てきません。

延宝八年(1680)に5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥ると8日に死去、享年40。危篤状態の中で末弟の綱吉を養子・将軍後継とし、五代将軍綱吉が誕生します。ドラマでは仲里依紗さんが演じていました。

上野寛永寺 常憲院(綱吉)霊廟勅額門

しかし、この「危篤での後継決定」というのは、果たして本人の意向なのか、枕周りの重臣の意向によるものなのか微妙なところです。この危篤状態の中にあって、大老酒井忠清は、後継を徳川家からではなく、後西天皇の第二皇子であった有栖川宮幸仁親王を「宮将軍」として擁立しようとした、と伝わっています。これは、鎌倉幕府の例に倣ったもので「鎌倉殿の13人」みたいな話ですが、老中堀田正俊水戸藩徳川光圀の反対により実現しませんでした。これらの家臣たちは徳川本家筋の血の濃い順から後継を綱吉としたのでしょう。次弟綱重は2年前にこの世を去っており、後継の順番としては綱吉は妥当です。

ちなみに家光は、綱重・綱吉の兄弟には領地へ赴かせず、江戸定府を命じていました。家綱に継嗣がなかったときの保険をかけたようで、このあたりにもバランス感覚が伺われます。

綱吉が将軍として宣下を受けた4ヶ月後、酒井忠清は病気療養するよう命じられ、大老職を解任されます。

「左様せい侯」といわれた兄家綱と異なり、綱吉は将軍の意思を政治に反映させていきます。綱吉の治世については次回に。