おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

SOBAYA ソバヤ

綱吉の時代から置かれた役職に「側用人」があります。将軍の命令を老中に伝え、老中の上申を将軍に取り次ぐ役割を担いました。先にも名前の出てきた牧野成貞が天和元年(1681)に「側衆(そばしゅう」の中から抜擢したのが最初といわれます。

江戸幕府において側用人として権勢をふるった有名な人物としては、この牧野の他に、柳沢吉保(綱吉)、間部詮房(家宣・家継)、大岡忠光(家重)、田沼意次(家治)などがいます。(大岡忠光はちょっと違うかも)

ドラマ「大奥」 将軍綱吉の衣装

牧野成貞と柳沢吉保の二人は、いずれも綱吉の下で側用人を務めました。いずれも舘林藩主時代から綱吉の家臣です。当時の老中は譜代大名で、もちろん将軍の家臣には違いありませんが、親近感は圧倒的に側用人の方にあります。

側用人による政治が台頭したきっかけは、前回ご紹介した、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊刺殺事件でした。事件が老中の御用部屋で起こったことから、それまで将軍の居所近くにあった御用部屋ですが、将軍の身を守る観点から遠ざけられました。そのため、将軍と老中の仲介役として側用人の重要性が増したのです。

初代側用人の牧野成貞は綱吉の少年時代から近習を務めた他、舘林藩主の時代にはその家老を務めるなど、極めて近しい関係でした。ドラマ「大奥」では、仲里依紗さん演ずる綱吉に、夫阿久里と息子(男女逆転なので)を大奥に取られる屈辱的な役柄でした。

夫と息子が病死(綱吉に生気を吸い取られた?)した後、成貞は隠居して領地を返上した、というのがドラマ上でナレーションで紹介されました。実際の歴史ではは養子をとり、家督を継がせているので、領地返上は創作です。が、成貞の異例の出世の裏に、妻の阿久里と娘の安が綱吉のお手つきとなったことは当時から噂に上っています。

更には綱吉のあまりの傍若無人さに耐えかねて、「牧野家は自分一代限りにしたい」と漏らしたとの説もあり、成貞にとっても綱吉が手に負えない存在になっていたことが伝わります。

成貞に代わるように、側用人として権勢を誇ったのが柳沢吉保です。彼については次回以降で。