おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

舟を呑む4

菱垣廻船の模型など展示がないか、あったら見に行って写真を掲載しようと思ったのですが、結論としては、「見つからなかった」ので、「菱垣廻船」と並んで江戸時代の海上運送の主役となった「樽廻船」の写真を。いずれも「弁才船(べざいせん)」といわれる大型の木造帆船で、構造上大きな違いはありません。(菱垣廻船は舷側に木製の菱組格子の装飾があるのが特徴です

樽廻船模型展示(西宮市郷土資料館館)

模型展示が全くない訳ではありません。「菱垣廻船 展示」で検索したところ、最初に「浪華丸」というのがヒットします。「日本海事史学会」のHPによると、

大阪市が市制100周年の記念事業として復元建造し、大阪市立の海事博物館「なにわの海の時空館」(2000年7月開業)のメイン展示物とした菱垣廻船(ひがきかいせん)。

とあります。

全長が98.6尺(29.876m)、幅7.4m、帆柱の高さ90.8尺(27.5m)という堂々たるもので、日立造船堺工場で建造されて、「1999年7月29日~8月1日、大阪湾で帆走実験が行われた。」という記事もあり、実物大の復元船が海に浮かぶところはさぞかし絵になったことだろうと思います。

が、「なにわの海の時空館」は毎年の赤字計上で2013年に閉館、現在も買い手がつかず「大阪最後の負の遺産」と呼ばれる黒歴史となってしまっています。浪華丸は現在もこの博物館内に残されているものの、公開はされていません。大阪万博関連で再公開のイベントなどがあればいいのですが・・(黒歴史だけにゲンが悪いかな・・)

もうひとつ、東京は両国にある「江戸東京博物館」の常設展。過去2回行ったことあるのですが、記憶にない・・。こちらは現在大規模改修中につき休館中です。ただHPではこの展示の360°パノラマビューが見られるようになっています。

菱垣廻船の展示の話(しかもそっちの写真無し)で終わってしまいましたが、次回は元の話に戻ります。

 

 

舟を呑む3

酒造業を成功させ、大坂に進出した鴻池新右衛門(新六)。諸説ありますが大坂城下の旧久宝寺町に店舗を開いたと伝わります。現在その跡を示すものは残っていませんが、町内に「銅座公園」が。このあたりに鋳銅や銅の取引を行う「銅座」があった名残でしょう。

大阪府中央区の銅座公園(久宝寺町2丁目

大阪進出の時期が前回ご紹介したように元和五年(1619)のこと。この元和という時代は鴻池家だけでなく「元和偃武」の言葉で知られるように、日本史上でも大きな変革が起こった時期でした。

元和元年=慶長二十年(1615)に大坂夏の陣により豊臣家が滅亡、領主同士の争いが止み、武器を偃(ふ)せて武器庫に収めたことから「偃武」と呼ばれるようになりました。(江戸時代中期に儒学者によって創られた語との説が有力)さらに大阪進出と同じ年に、堺の商人が紀伊国和歌山県)白浜富田浦から廻船(貨物船と考えるとわかりやすいでしょう)を借り、大坂から江戸へ多種多様な生活物資を運びました。また、同じ年に大坂の北浜の泉谷平右衛門が250石積の廻船を借り、同様に江戸に日用品を運んでいます。これが「菱垣廻船(ひがきかいせん)」の始まりです。

現在の堺港 灯台は明治十年(1877)完成・現存する最古の木製洋式灯台のひとつ

この項の最初に、酒を運ぶルートについて「伊丹から神崎(現在の尼崎市)までは陸路」「神崎からは川を舟で下り、大坂の伝法(でんぽう)、安治川口あじがわぐち)という河口のあたりに集積されました。ここから船で江戸まで運ばれる」と書きましたが、これは菱垣廻船や、それ以降の樽廻船のルートができてからの話で、それまでは全部陸路をたどって江戸まで運んでいたのでした。この海上ルートができたおかげで、輸送量は大幅にアップし、伊丹の酒も海上輸送されるようになったのです。

鴻池家は、酒造業に留まらず、海運業にも進出していくのですが、その話は次回で。

舟を呑む2

力士の優勝祝いなど宴会の席で「菰冠」(こもかぶり)と呼ばれる「菰(こも)」を巻いた樽を使います。この樽の蓋の部分を木槌で割って封を開け、桝などで皆で祝杯を挙げる姿は、いかにも日本の祝宴といった感じですね。

「菰」というのは稲わらで作った筵(むしろ)を言います。乞食のことを「おこもさん」「こもかぶり」などとも呼びますが、筵(むしろ)をかぶっている姿から由来しています。今では樽の装飾材のように使用されていますが、元々は酒を船で運ぶ際の「保護材」だったと考えられています。

菰を巻いた樽 左下が通常の樽(伊丹ミュージアム

陸路で馬の背に樽2つを振り分けて運んでいた時期は樽の大きさは2斗(20升=36リットル)樽が主流でした。二斗樽2つでも72Kg。馬はそれを大坂の河口まで運んでいったわけです。そのうちに伊丹を流れる猪名川をくだって酒を運べるようになると、効率化の面からも樽は大型化し、四斗樽(40升=72リットル)が主流になっていきます。

最初の頃はこうした樽のまま運ばれていたのでしょう(白鹿記念酒造博物館)

船が揺れて大きな樽同士がぶつかって壊れると、中の酒は台無し。ですからそうならないよう、今でいうプチプチ(エアーキャップシート、というのが正式名称らしいですが)のように樽を筵で巻いて保護したのが始まりだそう。

始めの頃は機能重視でただ保護だけのために巻いていましたが、それぞれの名称を表に出すだけでなく、デザインでも人目を引くように装飾化していきます。

さて、伊丹の酒が全国に流通するようになり、元和元年(1615)、鴻池新右衛門(新六)の次男、善兵衛秀成が大坂に居を移し醸造業を始めます。四年後の元和五年(1619)父の新右衛門も大阪に出て、鴻池家は大坂の街に軸足を移したのでした。この続きは次回で。

舟を呑む

本題に入る前に、先週から始まったBSプレミアムドラマ「舟を編む」の話を(この項の題名の元です)。2012年に本屋大賞を受賞し、2013年に映画化されました。今回のドラマは原作では脇役だった「岸辺みどり」(映画では黒木華さん演)を主人公に話が進んでいきます。主演は池田エライザさん。読者モデルからファッション雑誌編集者として勤めていましたが、出版不況で雑誌が廃刊(WEB化)、辞書編集部へ異動するところが18日の初回でした。

元の主人公、「馬締光也(まじめ みつや)」は映画の松田龍平さんから野田洋次郎さんへ。無口なキャラクターだったのが、やたらしゃべるキャラクターに変貌していますが、変人ぶりはしっかり受け継いでいます。このドラマの企画、10年越しのものだそうで、これからどう展開していくのか、今夜の第二話が楽しみです。

伊丹の酒が近畿地方のみならず、江戸へも運ばれて行きました

さて、鴻池(山中)家が作った酒は、

・大量の仕込み(生産)が可能

・不純物が少ない(濾過・火入れ)ので劣化しにくい

という特長がありました。それは長距離の輸送にも品質を下げずに売ることが可能、ということです。さらには戦乱の世が終わったことで野盗などの襲撃を恐れずに輸送することもできるようになりました。

さらには、徳川家康が江戸に幕府を開いたことで江戸という一大消費地が関東に生まれました。これにより、伊丹の酒は江戸にまで運ばれるようになりました。

そのルートは、伊丹から神崎(現在の尼崎市)までは陸路を進みます。馬借(運搬業者)によって大阪に運ばれるのですが、運ぶ側のモラルが低かった時代、「途中で中野酒を抜くな」というピンハネを禁じた取り決めなどもあったようです。

神崎からは川を舟で下り、大坂の伝法(でんぽう)、安治川口あじがわぐち)という河口のあたりに集積されました。

ここから船で江戸まで運ばれるのですが、次回は運搬のための樽の話を。

あっち行け、そっち行け、鴻池13

日本酒の作り方について8回かけてしまいましたが、始祖にあたる山中幸元の話に戻ります。彼が山陰の戦国大名尼子氏の家臣、山中鹿介(幸盛)の長男であり、尼子氏の滅亡後9歳で大叔父を頼って伊丹に流れてきたことはすでに述べました。

商いで身を立てるにあたり、「山中」の名字を捨て、地名をとって「鴻池屋」を名乗り、名前も幸元から新右衛門、あるいは新六としています。

鴻池発祥の地からほどない場所にある「鴻池神社」

「鴻池」の地名の由来は、というと、「鴻」(こう)という音と、字に「鳥」が含まれることから、「コウノトリ」が飛来する池だと思っていたのですが、そうではないようです。「鴻」にあたる鳥は「菱喰」(ヒシクイ)というマガンの一種だそうで、夏季はシベリア北部で繁殖し、冬になると中国や日本まで南下する渡り鳥です。

鴻池地区の旧地名を記載した案内板

この地区にはかつて、黒池・西池・新池・前の池・玉田池という灌漑用の池があったようですが、そこに多くの「鴻」=ヒシクイが多く飛来したので池の名になったのでしょうか。

上に挙げた池は埋め立てられて建物が建ったり、池域が狭くなってしまったりで、当時の様子はうかがえませんが、同じ伊丹市内にある「昆陽池」(こやいけ)は公園として残り、都市部には珍しい渡り鳥の飛来地として知られます。実際に冬に訪れたところ、ヒシクイかどうかは判別がつかないものの、雁のような水鳥が鷺やユリカモメと共に見られました。

冬の昆陽池 多くの渡り鳥が飛来します

また、「こう」は「国府」のことを指しているといい、摂津の国の国府大阪市天王寺区中央区にあったする説が有力)をこの地に移す計画があったため、その名残であるとも伝えられます。

いずれにせよ、この地方の名で酒屋としての商いを始めたのが、安土桃山時代の最終期、慶長年間でした。戦国時代のように商品の移送中に荷物が襲われ奪われる、というケースは激減したことでしょう。鴻池屋新右衛門は自ら工夫を重ねて生み出した酒を、遠くにまで売り出します。その話は次回で。

あっち行け、そっち行け、鴻池12

風邪などのときに「アルコール消毒や」などと冗談をいいながら飲酒するのを見かけます。(私本人も経験者ですが)この効果のほどは期待できないとはいえ、アルコールに消毒効果があるのはコロナ禍を経験してきた私達のよく知るところです。
原酒のアルコール度数は20度近くにも達するので、細菌は増殖しにくい(死滅はしないまでも)状態なのですが、その状態で増殖する細菌が「火落ち菌」です。乳酸菌の一種で、日本酒のような環境を好んで増殖します。増殖によって旨味が増せば言う事無しですが、白く濁って酸っぱくなり、香りも損なわれてしまうのです。乳酸菌の一種、ということからも変化の状況は想像がつきますね。

大桶の中で記念撮影ができます(白鹿記念酒造博物館)

今でこそ酒の貯蔵にはホーローや金属のタンクを使用しますが、これまでの写真でもわかる通り、当時の貯蔵は木桶です。洗浄で落としきれなかった菌が酒の中で増殖すると「火落ち」「腐造」となって大桶の中身はもちろん、その年の新酒すべてが出荷できなくなることも。そうなると蔵としては大損害、世間的な評判も落ちると廃業せざるを得ない状況にもなってしまいます。
この酒造りの天敵ともいえる細菌は、高温の環境では生きられない性質があり「火落ち」=火で落ちるの名はそこから由来しているわけですね。
そこで、出来上がった酒に対して行われるのが「火入れ」。酒に熱を加えて「火落ち菌」その他の細菌を死滅させる作業です。

火入れ前後の工程(白鹿記念酒造博物館パネル)

ここで比較するとわかりやすいのが牛乳の殺菌。牛乳の場合殺菌方法が「保持式により摂氏63度で30分間加熱殺菌するか、又はこれと同等以上の殺菌効果を有する方法で加熱殺菌すること」と法令で規定されています。
市販されている牛乳の9割が120~150℃で1~3秒加熱して殺菌する「超高温瞬間殺菌(UHT)」という方式を取っていますが、65℃程度で30分程度連続的に熱を加えて殺菌を行う「低温保持殺菌(LTLT)」などの方式も存在します。

日本酒の場合、熱燗にするイメージですが、あまり高温ですと、酒の風味が損なわれてしまうので、およそ60℃で10分から15分加熱する方式をとります。

火入れされた日本酒は囲い桶で貯蔵・熟成されたのち樽詰めされます。

こうして、日本酒は市場に出せる状態になります。鴻池家はこの日本酒から身代を大きくしていくのですが、その話は次回以降で。

あっち行け、そっち行け、鴻池11

⑧澱(滓)引き・濾過・火入れ

⑦の「搾り」によって日本酒の部分と「酒粕」の部分に分離されます。酒造りの盛んな阪神間灘地方では、新種の季節になると酒粕も出回ります。45年以上前に亡くなった祖父はトースターで酒粕を焼き、砂糖をふりかけて食べるのが好きでした。子供の舌には酒っぽさが苦手で手を出しませんでしたが。

さて、搾った酒は大桶に移されます。この時点でまだ不純物が多く混じっていますので、数日間はここで寝かせます。

大桶 下のタガの部分に蛇口のようなものが見えます


そうすると、不純物が澱(おり)となって沈んできます。上澄みの部分を汲みだし、沈んだ澱の部分は取り除いてしまいます。この上澄みの部分が商品化される前の「原酒」ともいえる部分ですが、ここにもまだ色がついていて雑味も残った状態です。

澱引きの様子を写した写真

鴻池で今と同じ「清酒」が作り出されたのは、この先の「濾過」の工程が入っているからだと考えます。というのも、現在においても濾過の工程において、

・活性炭素の粒を清酒に混入して異物を付着させる方法

があるからです。ここでやっと、「灰を入れた翌日、桶の中の酒が澄んで・・」という伝承が実際のものとなって出てきました。要は腹いせのつもりで投げ込んだ灰が不純物と結合して下に沈み、上澄みの酒が旨くなったという現象が起きたのでしょう。

「濾過」を経て、濁りや雑味が取り除かれても、酒の中の酵素はまだ生きています。ということはまだ活動を続けているわけで、そのまま放っておくと糖化が進んでしまいます。すると当初作った酒より甘さが増して味のバランスが崩れる「甘ダレ」や、「ムレ香」といわれるにおいの変化をもたらし、酒の品質が劣化してしまうわけです。

それ以上に恐ろしい現象が「火落ち」。この言葉は昨年の朝ドラ「らんまん」でも、主人公の実家の造り酒屋を廃業に追いやりました。その現象については次回で。