おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

大阪に呼ばれた男やけど大阪の街を出よう

突然ですが異動の発令があり、単身赴任を解消し、東京(千葉ですが)に戻ることになりました。1年ちょっとの大阪での単身生活、東京に戻っていた週を除き、週末は京阪神の色んな所へ行きました。(京都は混むのが嫌であまり回数は多くありませんが)

この1年でもっとも収穫だったと思うのは、「大石順教(おおいし じゅんきょう)」という人物を知り、その生き方に触れることができたこと。

和歌山県九度山の「旧萱野家・大石順教記念館」

順教については、高野山のあと宿泊した九度山にその記念館がありました。九度山・真田ミュージアムのついでに寄った場所で、その存在は幸村を食ってしまうくらいのものでした。彼女(尼さんです)についてはその足跡を少したどってみたので、いつかこのブログでも紹介できればとは思いますが、これは東京へ戻って落ち着いてからになるでしょう。

しばらく(1ヶ月)ブログの更新をお休みしますが、辞めるわけではないので、再会しましたらまたお付き合いいただければ幸いです。

離宮にたずねよ2

私が小学校低学年だった約50年前、先月91歳の誕生日を迎えた父が風呂でよく口ずさんでいた唄のうちのひとつが、

い~ち~のた~にの い~く~さや~ぶ~れ

で始まる「青葉の笛」という唄でした。(ちなみに愛唱歌のもうひとつは「上海帰りのリル」でした)

この唄は源平の合戦の一つ、「一ノ谷の戦い」を題材とした尋常小学唱歌だそうで、明治三十九年(1906)に発表されたのだそうです。

須磨浦公園内にある「一ノ谷戦の濵」碑

冒頭に紹介した「歌いだし」の部分を含めた歌詞をご紹介すると

一ノ谷の軍(いくさ)敗れ 討たれし平家の公達(きんだち)あわれ

暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に  聞こえしはこれか 青葉の笛

これが一番で以下が二番です。

更(ふ)くる夜半(よわ)に  門(かど)を敲(たた)き

わが師に託せし 言の葉(ことのは)あわれ

今際(いまわ)の際(きわ)まで 持ちし箙(えびら)に

残れるは 花や今宵 のうた

同じ風呂の中で聞かされる身(小学校低学年)としては、平家の公達までは理解できました。これはわからないながらも大河ドラマ「新平家物語」(昭和四十七年:1972)に見て(見せられて)いたからでしょう。が、「須磨の嵐」は「砂の嵐」、「持ちし箙に」は「持ちし海老らに」だとずっと思っていました。(巨人の星の「重いコンダラ」などと同じでしょうか)

ちょっと平家物語をかじるようになると、一番は平敦盛(あつもり)、二番は忠度(ただのり)の話だということがわかるのですが、こういう唄を小学校で習い覚える戦前の児童には基礎の部分で敵わない気がします。

上の写真の石碑のある「須磨浦公園」にはこれ以外に「敦盛塚」というのがあり、その敦盛の「首洗いの池」も近くにあるのですが、この敦盛は清盛からすると甥にあたり、当時16歳でした。まずは今回の須磨行で「敦盛」に絡んだ場所を回りましたので、次回からご紹介していきたいと思います。

 

離宮にたずねよ

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

阪神間で生まれ育ち、現在単身赴任で大阪にいるのですが、共働き家庭に育ちました。今の時代は共働きがごく普通になりましたが、半世紀ちかく昔はまだ少数派でした。

祖父母との同居だったのでカギっ子ではなかったですが、あまり家族で遠出の旅行をした思い出がありません。5歳上の兄が生まれる前年に祖母が脳溢血で倒れ、それ以降左半身が不自由になったこと、祖父が僕の3歳ごろに膝の皿を割り、歩くのに不便が生じたことなどがあり、家族そろって出かけることができなかったのだと思います。

そうした事情で、父か母のどちらかと一緒に出掛けた先で、高く噴き上げる噴水のある公園が小学生時代の記憶として残っています。

いくつもの高く噴き上げる噴水が子供心に残っています

神戸よりも西の須磨方面だったので、大きくなってからも、「あれは『須磨浦公園』だろう」と思っていたのですが、今年6月の頭に須磨周辺を訪ね、思い込みの間違いだと判明しました。

というのも、乗った阪神電車の行先に「須磨浦公園」と表示がされていたからなのですが、実際に須磨浦公園を訪れるとこんな感じ↓で「なんか違う」。

須磨浦公園 あれ、こんな感じじゃなかったなぁ・・?

で、須磨浦公園は「浦」の字からもわかるように、海のすぐそばにあって、上の写真は山側に向いて撮っているのですが、逆方向は海のすぐ近くです。

公園の南側にはJR神戸線が通り、その先は海です

子供心に海が見えればそれも印象に残っているはずなのですが、全く海のイメージはありません、「ここじゃなかったのか」「では、あれはどこ?」と疑問に思いましたが、その場所がどこだったのかは数時間後には判明しました。

今回「須磨浦公園」までやってきたのは、「敦盛塚」と「一之谷の戦い・古戦場跡」を見たのち、敦盛の首洗いの池のある「須磨寺」を見るためでした。で、午後からは「須磨離宮公園」で菖蒲を見ようと思っていたのですが、結論からいうと、子供の頃の印象の場所は、離宮公園の方でした。

今回はこの須磨行の話で進めていきたいと思います。

粗相・失踪・血相6

周囲の緊迫した雰囲気が伝わる名文なので、そのまま転記させていただきます。

「私は熟考しました。そして苦しいながらも、結論を出しました・・・」

 鍋が煮えたぎりグツグツ音を立てた。自分の心臓の鼓動に似ていると松枝は思った。

 音にせきたてられたかのように、仁鶴は一息に言った。

「熟考を重ねた結果、『七代目・松鶴』は・・・・・・七番弟子の『松葉君』に」

空気が氷った。時間が凍てついた。

 

発言後のサッと冷えた空気と静寂、一方で鍋の煮える音だけが響く・・ドラマだと名場面になりそうです。

さて、七代目の指名を受けた松葉師匠(この時点で弟子はいませんでしたが)は、昭和二十七年(1952)生まれ。入門が昭和四十五年(1970)といいますから、年齢は41歳、入門後23年にこの襲名の話が降ってわいたわけです。

七代目松鶴笑福亭松葉師匠(ワッハ上方

例の失踪事件で松鶴名跡松竹芸能預かりとなっていました。この忘年会の行われた平成五年(1993)には、桂べかこ(現:南光)師匠と松葉師匠が司会を務める生活情報番組関西テレビ「やる気タイム・10」→10月から「痛快!エブリディ」に番組名変更)が」スタートしています。

若き日のべかこ(南光)師匠 松葉師匠とは同期入門でした(ワッハ上方

穿った見方をすれば、松竹芸能から売出中の松葉師匠をさらにプッシュしようという意図が働いたのでは?とも思えますが、真相はわかりません。ただ、この突然の話、周りも本人も相当驚いたことでしょう。

突然の七代目指名で、一門内に波風は立ちましたが、最終的に翌年2月には松葉師匠を七代目とすることでまとまったのです。が・・・

この年の夏から松葉師匠は体調を崩し、手術後に入退院を繰り返すようになります。そして平成七年(1995)9月22日、道頓堀中座で行われるはずだった襲名披露公演の日に44歳という若さで師匠の後を追ってこの世を去ってしまいました。

この9月22日は何の因縁か、8年前に失踪事件が起きた日でもありました。今回の1枚目の写真には「笑福亭松葉追善興行」「七代目笑福亭松鶴追贈」と書かれています。襲名披露を行えなかったため、死後にその名を贈る、という上方落語としては異例のことでした。

現在「松鶴」の名は空位となっており、時折八代目は誰が継ぐのか、と話題になっては消えていきます。いつか一門や上方落語好きが納得する名人がこの大名跡を継ぎ、上方落語を盛り立ててくれることを祈ります。

松鶴をめぐるお話は以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

粗相・失踪・血相5

五代目枝鶴の失踪により、七代目松鶴襲名への構想は白紙となり、この大名跡松竹芸能の社長預かりという形になりました。

六代目松鶴師匠の惣領弟子というと、3年前(令和三年:2021年)にこの世を去られた仁鶴師匠ですが、六代目も遺言に「七代目は仁鶴に」というものがあったともいわれます。それが実現しなかったのは、笑福亭一門の大半が松竹芸能に所属しているのに対し、仁鶴師匠が吉本興業の所属だったからのようです。

ちなみに追善興行の出演者に仁鶴師匠の名前がないのも同じ理由からでしょう。

六代目松鶴を継ぐのは誰なのか(繁昌亭内掲示の四天王似顔絵より)

平成五年(1993)年末の一門忘年会の事、仁鶴師匠は何の前触れもなく、一門の前である一大発表を行います。一門が揃う忘年会ですが、ここで22名いた弟子の十番まで(五代目枝鶴を除く)を列記すると(敬称略:この時点での名前)

①仁鶴 ②鶴光 ③福笑(ふくしょう) ④松喬(しょきょう) ⑤松枝(しょうし)

⑥呂鶴(ろかく) ⑦松葉(まつば) ⑧鶴瓶 ⓽鶴志(かくし) ⓾小つる

となるのですか、二番、三番弟子の2人はこの回を欠席していました。

五番弟子の松枝師匠が著書「ためいき坂  くちぶえ坂」でこの時の話を描いています。

要約(こちらも敬称略)すると

一門での乾杯を前にして、仁鶴は話し始めます。

「先日、松竹芸能・勝社長よりお話があり、早く『笑福亭松鶴』の名前を復活させるべきではないか、・・私ももっともだと思い・・そこで、その候補を六代目松鶴の直弟子であり、松竹芸能所属である者に絞り考えました・・本日、その名前をここに発表します」

松竹芸能所属」というからには仁鶴本人ではありません。一同が「誰を?」と思う間もなく、仁鶴は七代目となるべき人物の名前を発表したのです。

この続きは次回で。

 

 

 

粗相・失踪・血相4

興業を救ったのは六代目松喬でした。特に初日は高座の衣装も無い状態で、浪花座の前で景気づけの鏡開きの司会をしていたところに降って湧いた代役だったのです。弟子を走らせ衣装を用意した松喬は初日のトリをしっかりと務めました。そしてそのまま楽日のトリ「らくだ」も演じきり、その役目を果たしたのです。

上方落語各一門の定紋(じょうもん) 笑福亭は右上の「五枚笹」

六代目の実子である枝鶴は、元から廃業と復帰を繰り返すところがありましたが、よりによって一門のみならず、上方落語界、いや東京の落語界も加わった一大イベントにやらかしました。松竹芸能としてはこの興行を七代目松鶴襲名披露につなげていきたいという目論見があったのでしょうが、おそらく大名跡を継ぐことへのプレッシャーに押しつぶされたのでしょう、松竹芸能との契約を解除され、現在も消息不明です。

一時期預かり弟子として面倒を見ていた先代(五代目)文枝師匠(当時は小文枝)も、著作の中で「父親に対して甘えがある」旨の指摘をしていますし、トリの穴を埋めた六代目松喬師匠もこの事件を回顧し、ネタを覚えきることができず、不安がもとで失踪するという弱さのある人だった、と述べています。

朝ドラ「ちりちてちん」では、小草若の失踪の後、草若師匠の三回忌に天狗芸能の鞍馬会長(竜雷太さん)が現われました。「あいつ(小草若)はまだ出てきよらへんのか?」と尋ね、他の四人の弟子たちに「お前らのうちの誰かが草若を襲名して興行をうつんや」と言い出し、弟子たちは動揺します。

その後、小草若がある出来事をきっかけに復活、最終回では草若を襲名し、袖で見ていた会長が涙するシーンが描かれるのですが、現実の枝鶴はそのまま消えて廃業。

現実の笑福亭松鶴の大名跡はこの後どうなったのでしょう。それについては次回に。

粗相・失踪・血相3

追善興行が行われた「浪花座」は、松竹が経営する劇場として昭和六十二年にオープンしました。六代目松鶴存命中からすでに建設が進められており、松竹では六代目松鶴→笑福亭松翁(しょおう、しょうおう、とも)、枝鶴→七代目松鶴となる襲名披露興行まで計画していたといいますから、枝鶴が父の名跡を継ぐことは半ば既定路線でした。

かつて道頓堀にあった小屋の名前にちなんだ「浪花座」(大阪歴史博物館

この計画は六代目が亡くなったために立ち消えとなっていますが、追善興行はそれに代わる位置づけのように思われます。ポスターの右には春団治米朝といった上方落語の看板が名を連ね、左の笑福亭一門の一番上に「枝鶴」の名前があるところからも、そのあたりが伺われます。この興行の初日と楽日(最終日)のトリは枝鶴が務めることとなっていたのにもその意味合いが示されているようです。。

枝鶴は、初日に「鴻池の犬」、楽日には「らくだ」を演じる予定でした。前者はこの興業の2週間程前の9月5日に、自身の独演会で演じたネタの一つで、この日は父親の一周忌でもありました。初の独演会でしたが、堅実に高座を務めていた事から、「鴻池の犬」も無難にこなしていたのでしょう。

後者の「らくだ」は枝鶴が初めてかけるネタでした。(「ネタおろし」と呼んでいます)兄弟弟子にあたる六代目松喬からこの2つのテープを借りて稽古をしていたようです。

9月22日、興行の初日浪花座に枝鶴の姿はありませんでした。家を出て浪花座に向うところまでは確認できたものの、そのまま行方不明となりました。当然トリの居ない楽屋・裏方は大騒ぎ。

「枝鶴師匠はどこや!?」(写真は池田・落語みゅーじあむ)

ちりとてちん」で師匠の草若が行方不明となった場面では、やむなく弟子の草々が代役で大ネタをかけて失敗してしまいますが、この興行ではどうだったのでしょうか。

その話は次回で。