おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

日本の舟と船15

とすると、下部は単なる台なのかという疑問が湧いてくるのですが、「なみはや号」を見た3カ月後、大阪府藤井寺市内を散策していると、遠目にも異様な建築物が目に入りました。

葛井寺(これも「ふじいでら」)の千手千眼観音(本当に1,000本の手のある仏様です)の開扉公開日でそれを目当てに出向きました。

月一回の開扉日が土曜だったので約40年ぶりの参拝

さらに南に300mほど行くと「岡ミサンザイ古墳(伝仲哀天皇陵」)があるのでついでにそちらにも、と思って歩いていくと、

何だあれ? という異様な建物が目に入りました。

何だこれ? 宇宙船を模した宗教関係の建物?

藤井寺市立生涯学習センター「アイセルシュラホール」。この地域で出土した「修羅(しゅら)」と船をモチーフにした建物だそうです。どうも「修羅」というと「阿修羅」とか「修羅場」という言葉が思い浮んで(「修羅」の元の意味は「阿修羅」の略称なので当然ですが)武器のようなものを想像してしまいがちですが、巨石・大木を運搬するための「そり」状の道具をいいます。

この角度だと「そり」っぽいですね

昭和五十三年(1978)中学一年生になりたての私も、新聞やテレビで「歴史的な発見」として取り上げられていたのを覚えています。(大和王朝=奈良という思い込みからか、奈良で発見されたと思っていました)古墳の石棺などに使用する巨石の運搬に使用されたもの、ということで当時行われた見学会には12,000人もの人が訪れたそうです。

この建物の大きく反り返った前方部を見て頭に浮かんだのが「なみはや号」でした。続きは次回で。

日本の舟と船14

当時漕ぎ手の方の「いくら漕いでも進む気がしない」だけでなく、私が一見した時のイメージ「ずいぶん重心が高くてバランスが悪そう」がその通りだったというコメントも残されています。「50センチの高さの波がきただけでもバランスを失う、また喫水が浅く少しの風でも倒れる」「帆のようなものを立てるなどという事は、現実的に絶対に無理なことでした。結局、船を安定させるため何百キロという重りを底に入れることになった」など。
ただでさえ五トンもある舟に数人分の重りまで加えることになるとは、設計段階でなにか間違っていたとしか思えない話です。
元々、舟埴輪を10倍して作るという企画ですが、舟そのものの実物があるわけでもなく、10倍という数字もどこから出てきたものか…。

今城塚古代歴史館 埴輪展示

写真は高槻市立今城塚古代歴史館(いましろ大王の杜)に展示されている復元埴輪で、舟形埴輪はありませんが高床の蔵らしきものと人物の埴輪があります。どう見ても同じ縮尺で造られてはおらず、全体を見て同じスケール(縮尺)で造られてはいないことがわかります。

歴史館隣の今城塚古墳には約190体のレプリカの埴輪が並べられ壮観です

二つの舟を縦に重ねたような不思議な形状が「重心が高い」印象に繋がっているのですが、この点、航海について検証されている専門家の方の解説で、この形状に関する疑問が晴れました。

この形は一隻の船ではなく・・

「上下を一体としてみるとワニの口のように見えるが、実は下あごに見えるのは、上部の船の台を表現したものだ。丸木舟に波除の板の部品を組み合わせて造られた木造の船、と説明される準構造船という代物ではないのではないか。」

下半分は単なる台でしかない、というのですね。と考えると重心が高い、というのはもっともな話です。

論文は次のように続きます。

あまり言われないことだが、埴輪の多くは、直接地面に置かれることはなく、円筒埴輪を土台にして造形されている。人物も剣や楯も鳥も魚もよく見れば円筒埴輪の上に鎮座しているのである。

どういうことでしょうか。次回に続きます。

    引用:古田史学会報181号「大きな勘違いだった 古代船『なみはや』の復元」

 

日本の舟と船13

「なみはや号」の実験航海は平成元年(1989)7月8日に大阪・天保山を出港、8月11日に韓国・釜山港に到着しました。「古代船」ですから推進力は人力、すなわち櫂を漕いで進んでいかねばなりません。大阪市立大学のボート部員二十六名を八~九名の三班に分け、①天保山~牛窓(岡山県)、②牛窓~福岡、③福岡~対馬をこの三班がそれぞれ担当して進み、対馬から先は伴走船にも分乗して交代しながら釜山を目指しました。

なみはや号は大阪から出発し釜山を目指します

「漕いでいても風景が変わらず、前進していないような気分があった。対馬から出航した際には、大揺れで船酔いする者が続出。 八人で立ち漕ぎしたが、力が入りにくく、水を十分にかいていた感覚は無かった。長時間すると手の平の豆が破れた。出航後、早く曳航が来ないかと思ったこともあった。」漕ぎ手のコメントです。

これだけだと困難な航海、というだけですが十年後に発表された回想コメントは驚くべきものでした。

際に海に浮かべて漕いでみますと、非常に安定が悪く、そのうえなかなか進みません。10年たった今だから言えるのですが、韓国の港では、学生達が古代の赤いたすきの衣装に着替えて、ずっと8人で漕いできたかのように振る舞ってもらっていましたが、実のところは夜間、他の船に牽引してもらっていたのです。

「栄光」ならぬ「曳航」のゴール

うーん、何だかTVの「やらせ」みたいな話です。おそらく瀬戸内海や近海ではともかく、外洋では全く歯が立たず、航海にならなかったのでしょう。(当初の航海コメントからもそのニュアンスを感じ取ることができます)とはいえ、失敗でしたというのも外聞が悪い、というのでゴールの部分はこのような形で結末を整えた、と想像がつきます。

冷静な目でこの復元船を見ると、口のように分かれた船首・船尾の形状はどう考えても実用的なものに思えません。果たしてこの船のモデルとなった埴輪の船は、本当に外洋など遠距離航海用の船だったのか?という疑問がわいてきます。

この疑問への答えは次回で。

 

日本の舟と船12

案内板に書かれているように、この船の全長は12m、高さ3m、幅1.82m、重さは5tあります。弓型に沿っていて、かつ前後が二つに分かれていて、魚や龍が口を開いているような特徴的な外観です。材料は米松(べいまつ)が使用されています。米松は現在でも建築材として外壁や骨組みに使われますが、ほとんど腐らないという特長があり、船材にはうってつけといえるでしょう。

口を開けているような特徴的な外観

前回、五世紀前半の古墳から出土した「舟形埴輪」をもとに作った、とご紹介しましたが、より詳細にお話しすると、このプロジェクト発足の前年、昭和六十三年(1988)大阪市平野区長原古墳群の「高廻(たかまわ)り2号墳」から出土した「舟形埴輪」を実物大に復元しました。

そして単なる「復元」だけでなく、一般公募で「なみはや号」と名付けられた(日本書紀に書かれた「なみはやのくに」から)船は、実際に大阪港から韓国の釜山までの700kmの航海を行います。当時の報道では次のように紹介されています。

「なみはや号」正面

1989(平成元)年7月8日、古墳時代の朝鮮半島との交流をよみがえらせようと、5世紀の古墳から出土した船形埴輪を基に復元した古代船「なみはや」が大阪港を出港した。全長12m、高さ3mで、基になった埴輪の約10倍の大きさ。瀬戸内海経由で古代人の航跡をたどり、8月11日に目的地の韓国・釜山港に入港した。(共同通信)

復元や航海、展覧会などを含めて3億5千万円の大プロジェクトで、これに参加した大阪市文化財協会の学芸員は、復元や実験航海は「当時の造船や航海技術解明に貢献し日韓親善にもつながった」とコメントを寄せています。

この記事だけを見ると、このプロジェクトは大成功したように思えますが、約十年後この時の関係者(航海参加者)が実際どのようなものだったかと告白、事の顛末が明らかになるのですが、それについては次回で。

 

日本の舟と船11

日本の船の起源は縄文時代の丸木船にあるそうで、一本の木を刳(く)り抜いた船なので、刳船(くりぶね)と呼ばれます。遺跡から出土した丸木舟の大きさはというと、全長が5~7m、幅は50~60㎝。かつおぶしを縦に割ったような形です。細長いのは一本の丸太から作られているからで、一列に並んで座り、櫂(かい)を漕いで進んでいたことが想像できます。刳船の中でも材料が単体なので、単材刳船(個人的には「舟」の字の方がしっくりくる気がしますが)に分類されます。

これはチブと呼ばれるアイヌの丸木舟です(最上徳内記念館)

より大きな船を造るには複数の材料(木材)を組み合わせることが必要になってきますね。複数の刳船部材を前後に継いだ船(複数刳船)により、若干大型化します。しかし「前後」ということは長くなるだけなので、積載量も限られ、耐航性にも欠けることから主に川で使用されたと考えられます。

丸木舟でも航海、すなわち海を渡ることは不可能ではなかったにせよ、積載量を増やし(乗船人数も増える)より安定性を高めるための工夫が施されました。丸木舟の側面(舷側)に板を継ぎ足して容量を大きくしたのです。こうした船を「準構造船」と呼んでいます。この工夫は弥生時代からあったようで、日本では中世までこの形式のものが大型船の主流でした。

大阪メトロ中央線「コスモスクエア」駅から西に300mほどいったところに、「古代船なみはや」が展示されています。

古代船「なみはや」

「なみはや」案内板

一時廃墟となってしまった「なにわの海の時空館」の展示の一部として野外展示されていますが、潮風で案内板がひび割れてしまっていて、若干郷愁を感じざるを得ません。この船は何なのか、というと平成元年に「大阪市なみはや号プロジェクト」という企画がもちあがります。五世紀前半の古墳から出土した「舟形埴輪」をもとに「古代船をよみがえらせて、実際に海を渡ろう」というものでした。官民ともにバブル真っ只中の時代、実際に実物大のものを作ったのです。この続きは次回で。

日本の舟と船10

「お江戸深川さくら祭り」は、深川周辺(門前仲町エリア・清澄白河〜森下エリア)の桜を鑑賞する毎年3月下旬から4月上旬に行われていイベントです。(令和八年は3月20日〜4月12日の開催でした)
大横川・仙台掘川・小名木川河畔に咲く桜を川沿いの遊歩道や橋の上から楽しむ(夜はライトアップされます)だけでなく、水上からも鑑賞できるよう、動力船(日本橋クルーズで運航されているガレオン船)での「お花見クルーズ」や、今回ご紹介する和船乗船体験も行われます。
さくら祭りのホームページによると、「黒船橋から巴橋までを往復」とあり、地図でみるとその距離は片道約300mほど。

「黒船橋」は画面左端 大江戸線の文字のある橋です

この近辺を歩き、イベントに出くわしたのは昨年(2025)4月6日のこと。「火事と喧嘩は江戸の派手」で両国橋や永代橋などに触れていた時期です。門前仲町の川沿いに火の見櫓があるというので見に行ったのですが、見た目にも新しいもので、調べてみると平成の時代に防災倉庫として火の見櫓に似せて作られたものでした。

門前仲町の火の見櫓 ここで使うことになるとは!

「これではブログには使えないなぁ」と思いながら、大横川沿いを歩いていると東側から西に向かって和船が進んできます。「和船の会」もこのイベントの存在も知らない時期でしたので、「観光船の一種?」と思いながらカメラを向けました。

「さぞかし人気ある観光船なんだろうな~」という印象でした

手前にも向こう岸にも桜満開!

ちなみに横十間川親水公園の乗船体験は無料ですが、さすがにこのイベントでの乗船は1人1,000円とのこと。といってもこの金額に保険料とお土産代が含まれてこの値段ですからかなりの人気です。1日先着200名(10人ずつ乗船するとして20回運航、といったところでしょうか?)整理券制なので配布時は行列必至です。

「黒船橋」の手前(くろふねばし の文字が見えます)

さくらまつりと和船の話はここまでですが、和船の話が続きます。

日本の舟と船9

この後、ミシピッピ号船内にあげてもらい、渡航の交渉をしようとする松陰達は漢文を筆記して意思を伝えようとします。しかし、ミシピッピ号にはそれを解読できる乗組員はいません。

手まねで「ポーハタン号へ向かうよう」指示されます。艦隊の旗艦であれば、通訳も居るからということでしょう。櫓杭の無い舟でまた進むのは・・と思った二人は、艦に備え付けの短艇(バッテーラ)で旗艦まで送ってくれるよう(身振り手振りで)伝えますが、すげなく断られてしまいます。

ポーハタン号の模型はありませんでした こちらはサスケハナ号

ミシピッピ号とポーハタン号、二艘の間はわずか一丁(約109m)しか離れてはいないものの、舟に櫓杭なく、しかも波の荒い状態ではその距離を進むのも容易ではありません。なんとか艦の舷側の階段に飛び乗ることができたものの、その荷物や刀を残したまま、漁船は流されてしまいました。

ポーハタン号艦上で、通訳官と漢字でやりとりをすることができ、そこで渡航の意思、「アメリカに渡って世界を見たい」という気持ちを伝えますが、アメリカ側とすれば、条約締結の大事な時期にそうした厄介を抱え込むのは迷惑事。あえなくこの試みは失敗、二人は下田奉行所に自首し、やがて二人は長州藩に身柄を移され、萩で獄に入れられます。出獄を許されたのち、実家の杉家にて開いたのが「松下村塾」です。(金子は獄死)

世田谷の「松陰神社」に「松下村塾」の模造があります(本物は萩)

以上「櫓杭」にかかるエピソードでした。
さて、体験乗船の話に戻ります。ここでの乗船は海砂橋の上流にある船着場を出て流れを下り千砂橋をくぐる手前あたりででUターン、今度は上流へ進んで再度Uターンして元の船着場に戻るコースです。

体験乗船コース

櫓の扱いは手元の返しを含め難しそうですが「三年かかる」というほどでは無さそう。(流れも穏やかでした)

その時のお話では、春に深川近辺で両岸に桜の咲く中を、(予約の)お客を載せて操船するのが一番の人気イベントだそうです。偶然にもその年の春、永代橋あたりの写真を撮るのに行き合わせて撮った写真があるので、次回ご紹介します。