おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

運河向いてる15

「黄金の日々」初回を見直してみて思ったのが、冒頭から主人公を取り巻く人物像が巧みに織り込まれていたこと。大河ドラマのような長期にわたるドラマでは、視聴者が主人公や周辺の登場人物に感情移入する時期はなるべく早いほうが良いに決まっています。そのため最近のドラマは「初回○分拡大スペシャル!」とかやっていますが、「黄金の日々」ではその手法は使われていませんでした。

大通りにも残る堺の古い町並み

主人公「納屋助左衛門」はこれまで大河ドラマが扱ってきた織田信長豊臣秀吉赤穂義士などと比べてなじみのない人物ですから、視聴者に予備知識がない分、周囲の著名な人物から主人公や堺の置かれた立場をうまく紹介していました。

また、主人公と行動を共にする、杉谷善住坊石川五右衛門の両名も実在の人物です。前者は二年後の元亀元年(1570)に近江国織田信長を狙撃するも失敗、後者は「絶景かな、絶景かな」という歌舞伎のセリフで知られる盗賊です。

京都南禅寺山門 石川五右衛門の「絶景かな」の舞台です

いずれも時の権力者に抵抗した人物を主人公の仲間にしたところ(どちらも堺に関わりある人物としているのは全くの創作でしょうが)、主人公も反権力的なキャラクターであることが暗示されていますね。

大河ドラマで戦国時代を取り上げる際には、とかく戦国武将を主人公に、近隣諸国の敵との知略・戦略の競い合いや同族間の葛藤などを描くことが多かったのに対し、「堺」という自治都市に住む人々(商人がほとんどですが)それぞれの思惑や、権力者への接し方(距離感)などの群像と、助左衛門らの目線からの権力者観というものが表現されていきます。

序盤の山場として「金ヶ崎の戦い」を描いた第五回「総退却」があります。助左衛門は織田家の陣に鉄砲を運ぶ任務を行ないますが、その織田軍は越前の朝倉義景を責めている最中に、北近江の浅井久政・長政父子の裏切りにより総撤退せざるを得ない事態にありました。絶体絶命の中で信長軍撤退のため、最も危険な殿(しんがり)役を申し出たのが木下藤吉郎です。この続きは次回で。

 

運河向いてる14

昭和五十三年(1978)の大河ドラマ黄金の日日」の初回あらすじご紹介の続きです。(これを全回分やるつもりはありませんのでご安心を)
奉公人の中から集められた「死んでも悲しむ身寄りのいない」数人の若者たちを前に宗及は次のように告げます。
命の惜しいものは参加せずとも良いが、命を落とさず戻ってこられれば五貫文の銭を与えよう
五貫文というと五万円くらい、当時の奉公人の給与水準がどれほどかわかりませんが、命の値段としては「安っ!」とツッコミたくなります。が、戦乱の世で庶民の命など吹けば飛ぶほどのものだったのでしょうね。

室町時代の銭(尼崎信用金庫 世界の貯金箱博物館)

さて、危険な仕事と聞いてその場から1人去り2人去り、最後に3人の若者が残ります。
まだ小さい頃船乗りの父を海難事故で亡くし、そのまま母とともに今井家に務めていた納屋(倉庫)番の助左(すけざ 演:市川染五郎さん←現白鸚さん)。
戦乱で親を殺され、堺に流れ着き今井家で奉公し、飛脚や地方での情報収集を務める五右衛門(演:根津甚八さん)。
お人好しで頼むと断れない性格で鉄砲(狙撃)の名人でもある鉄砲鍛冶の善住坊(ぜんじゅぼう 演:川谷拓三さん)。

このトリオが揃って前半の話にかかわっていきます。
宗及は一人一人に声を掛け、彼らの意思を確かめますが、そのやりとりの中で助左は「銭はいりませんから、戻れたら舟に乗せてください」と意外なことを言い出します。息子が船乗りになるのを嫌っていた(父と同じ末路となるのを怖れたのでしょう)母も先年亡くなったことで、船乗りになりたいと願い出たのでした。

堺市立市小学校の壁画より

こうして宗及と若者3人は堺からの脱出のため堀に架けられた橋の下に潜みます。会合衆に諮らず宗及独断の行為なので、自陣を出るのも隠密行動でした。そこで助左は6年前に堺の街で出会った織田家の侍のことを思い浮かべます。「あのお侍はどうしているだろう」
台所番をしていた侍(演:緒形拳さん)は、今井家の台所を褒め、堺を去る際、少年の助左に「小僧、世話になったな」と渡したのが永楽銭。「わしも小さい頃針を商っていたものだ」
その後、同僚から「藤吉郎、もう行くぞ」と声をかけられ、堺を後にしました。視聴者に「後の秀吉」であることを暗示(わかり易すぎる形で)してドラマの初回に主要な人物をあらかた登場させ「続」となります。次回も黄金の日々と堺の話が続きます。

運河向いてる13

宗易(利休)の家に立ち寄った宗及を待っていたのは、京都から逃れてきた小西隆佐(演:宇野重吉さん)でした。会談する3人の前には2つの茶器が置かれています。

千利休屋敷跡(堺市「利晶の杜」の向かい)

1つはひと抱えあるような大きな壺で「松島の葉茶壺(はちゃつぼ)」、もうひとつは手に乗るような大きさの「紹鷗(じょうおう)茄子茶入」です。前者は茶葉を入れて保存するための壺で、表面に無数の瘤があるのを日本三景のひとつ「松島」にみたてて名づけられました。(芭蕉が訪れるより前から松島の景勝は日本中に知られていたことがわかります)この壺で保存された茶葉をすり潰して抹茶にするわけですね。後者はすり潰された抹茶を入れるもので、口のすぼまった丸い形と黒っぽい色彩から「茄子」の名前があります。といっても今一般に売られている「長茄子」ではなく「丸茄子」のイメージでしょうか。

すり潰した茶葉から抹茶がたてられます

「松島の葉茶壺」と「紹鷗茄子茶入」、これらはいずれも「唐物」すなわち中国(明)から輸入されたものです。釉薬(ゆうやく:陶器を焼く際に使われる「うわぐすり」)を使った焼物は当時の日本ではまだ一般的ではなかったため、表面がコーティングされたような光沢のある「唐物の器」が珍重されたのでしょう。
二つとも当時天下の名物といわれた茶道具で、わび茶を発展させた武野紹鴎(たけの じょうおう)から弟子とされる宗及に伝わったものです。宗及がこれを信長に献上して堺の街が戦乱に巻き込まれるのを救おう、というのがこの3人が出した結論でした。
といっても他の会合衆は対信長強硬派ですから表立って動くことはできない上に、堺の街は信長の軍に包囲されており、信長がいる摂津国芥川城(今の大阪府高槻市)まで敵中突破する危険な行動です。

宗及は自身の他、茶器の運び役等の従者を奉公人から選ぶことにしました。養女の美緒(演:栗原小巻さん)に「身寄りのない者を集めよ」と命じます。もし途中で命を失っても悲しむ者がいないよう、親や兄弟のない者を連れて行こうというのです。こうしてドラマの主人公、助左衛門と仲間が登場するのですが、その話は次回に。

運河向いてる12

wikipediaで「黄金の日々」の項を見ると

従前は武士を主人公に取り上げた作品がほとんどだったが、今作では初めて商人を主人公に据え、庶民の暮らしと経済面から時代を描く物語の展開となった。

とあります。堺の商人たちが如何に戦国大名、天下人といった支配階級と対峙したかをのちの豪商、呂宋助左衛門(るそん すけざえもん)の眼を通して描いたドラマです。

第一回の冒頭では、炎に包まれた街(十字架のある建物、天主堂でしょうか)をバックにこの稿で何度も出てきたヴィレラの書簡のナレーションが流れ、そこからオープニングに移ります。夕日が水平線に沈んでいくさまがアップで流れます。

旧堺港の夕日 オープニングの夕日はフィリピンでのロケだそうですが・・

勇壮な音楽は教会の鐘のような音でラストを迎え、夕日は水平線の中に沈んでいく・・中学一年の身には堺がこの時期に繫栄したことは知っていても、その後どうなるという歴史は知らないながらオープニングのラストには、なんとなく感傷的なものを感じていたように思います。

NHKオンデマンドで見直すと、出演者の名前が次々と出され、中盤に「津川雅彦」「志村喬」、留めの前に「宇野重吉」「緒形拳」「丹波哲郎」ときて留めが「鶴田浩二」。うーん、そうそうたる面子です。

南蛮交易船の模型(さかい利晶の杜)

永禄十一年、足利義昭を擁して上洛した織田信長は、石山本願寺に五千貫、堺に二万貫の矢銭(この稿でも出てきましたが「軍資金」ですね)を要求、本願寺はこれに屈したものの、堺の街はこの要求を蹴ります。そのため、信長の軍が堺を包囲するところから始まります。会合衆の一員、今井宗及(いまい そうきゅう 演:丹波哲郎さん)は信長との融和を望みますが、他の会合衆能登屋平久(のとや へいきゅう 演:志村喬さん)や津田宗及(つだ そうきゅう 演:津川雅彦さん)達は徹底抗戦を論じます。

その場にいて一言も言葉を発しないのが、千宗易(せんの そうえき 後の利休 演:鶴田浩二さん)ですが、帰り道、宗易は宗及に「都より珍しい客人が来ているのだが、立ち寄っていかないか」と自邸に誘います。この続きは次回で。

 

運河向いてる11

京都で布教の許可を得るという成功には、ヴィレラが学習意欲が高い人物であったということがあげられます。通訳なしで教えを説くことができるほど日本語を習得していただけではなく、日本文化や仏教の宗派や教義、歴史についても知識を持っていました。日本文化に詳しい、ということは公家や武士たちと接する際に日本の作法に従い、感情を不必要に害さぬよう努めていた、ということでもあります。

また、彼とともに布教活動に従事したロレンソ了斎の存在も大きいものがありました。布教の許可を与えた一人、三好長慶の家来であった松永久秀は自領の大和国(奈良)にヴィレラを呼んで僧侶と宗教についての議論をさせようとします。久秀がキリスト教に良い印象を持っていなかったこともあり、ヴィレラの身に危害が及ぶ危険があり、代わりにロレンゾが派遣されました。

三好長慶像(堺:南宗寺)

こうした議論には審査役が必要です。議論の審査役に選ばれたのが久秀配下の武将であった高山友照結城忠正でした。奈良というアウェー状況にあってロレンソは仏僧からの疑問にことごとく答え、論破すします。その様子があまりに鮮やかだったのでしょう、審査役の二人はヴィレラから洗礼を受け、キリスト教徒となります。

この高山友照とともにその家族も洗礼を受けますが、息子高山右近は代表的なキリシタン大名として知られ、「黄金の日々」では鹿賀丈史さんがその重要な役割を演じておられました。

高山右近像(高槻城址公園)

また、このころにはこれまでに名前の挙がった堺の商人、日比屋了珪、小西隆佐も洗礼を受けキリスト教徒となりました。

大河ドラマ「黄金の日々」の始まりは堺が日明、南蛮貿易で巨利を享け繫栄している最中の永禄十一年(1567)から始まります。次回はドラマのエピソードなども紹介していきます。

 

 

運河向いてる10

日比屋了珪は京都にいた同じ堺の豪商、小西隆佐(こにし りゅうさ)宛の紹介状をザビエルに持たせていました。隆佐は薬種問屋を営み、主に京都で活動していたのです。ちなみに豊臣秀吉に仕え、肥後国熊本県)南半分の大名となった小西行長は隆佐の次男にあたります。

堺菅原神社に残る 小西行長手植え「笠松の幹」

さて、当時の帝は後奈良天皇(105代)、将軍は足利義輝(13代)です。

当時の都の荒廃・混乱ぶりですが、天皇が位に就いたのが大永六年(1526)なのに対し、即位式が行われたのがなんと十年後の天文五年(1536)ということからも伺えます。即位式のための費用もありませんでした。日明貿易で利益を上げていた周防国守護大名大内義隆(前回名前が出てきました)を始めとして、地方の大名に勅使を派遣し献金を取り付けてやっとのことで即位式を行うことができたのです。

応仁の乱は終わっても、将軍の後継者争いだけでなく、将軍を支える細川氏の内部抗争などもあり、将軍義輝も京都にいられない状態が続いています。畿内や都のあちこちで戦いが繰り広げられており、ザビエルは天皇・将軍に謁見することはかなわないまま京都の地を去っています。(その後山口・平戸・大分で布教を続け、インドに渡ってから中国での布教を目指す途中で亡くなりました)

ザビエルがなしえなかった将軍への謁見を果たしたのが、ガスパル・ヴィレラです。ザビエルが山口で布教していた際に、話を聞き洗礼を受けた盲目の琵琶法師ロレンソ了斎を伴って永禄二年(1559)に京都入りを果たします。そして翌年永禄三年(1560)に足利義輝に謁見がかなうと京都でのキリスト教布教許可の制札を受けることができました。さらには事実上の京都の支配者であった三好長慶(みよし ながよし)からも布教の許可を得ます。(この時期が長慶の全盛期でもありました)

やっと都での布教がかなった宣教師たち。次回に続きます。

 

運河向いてる 特別編 ヴェネツィア

旧PCがウィンドウズ11へのアップデートに耐えられないため、新たに買ってセットアップしたものの、それに時間がかかってしまい、土日更新ができませんでした。

一応更新する気はあるので、ヴェネツィア編でアップしなかった写真を何枚か紹介してお茶を濁します・・

ヴェネツィア一番の名所 サン・マルコ寺院

寺院を見下ろすように立つ鐘楼(高さ98.6m)

鐘楼から見下ろすサン・マルコ寺院

サン・マルコ広場

リアルト橋 長さは48m 水面からの高さは7.5mあります

島内の移動にはこんな路地を通ることもしばしば・・

次回からちゃんと更新しますので・・