おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

果てには茶碗~鴻池の粋3

男は自らの言葉の行き届かないことを詫びると、身分を明かしました。

私、今橋の鴻池善右衛門の手代で佐兵衛と申します。

佐兵衛が言うには、この家のぼん、つまり男の子が真っ黒な犬を飼って「クロ、クロ」と呼んで毎日遊んでいたのですが、この犬が先日病気で急死してしまいました。ぼんが「クロはどこへ行った!」というので、それらしい犬を連れてきて見せても、違う犬だと納得せず泣きわめくばかり・・。

大商人鴻池家のイメージ(写真は富田林市杉山家住宅)

憔悴する子供を周囲が案じていた矢先、佐兵衛がこの店の前を通りがかったのでした。3匹のうち、真っ黒な犬がクロに生き写しで、うれしくなって商家に飛び込み、主人に話を持ち掛けた、というのです。前の犬が病気で亡くなったこともあり、日柄を選んで、今日この日に頂戴にあがった次第、という事情を伝えます。

吉日ということを、「今日は【てんしゃび】でございます」と表現しています。これも使わなくなった言葉ですが、漢字で書くと「天赦日」。天がすべての罪を「赦す=許す」日ということで、最上の吉日とされています。季節と日の干支とでこの「天赦日」が暦に載せられるそうです。

「クロ」に生き写しの犬が!(写真は中野区役所前のブロンズ像)

どれくらいの頻度の日かと、今年2024年の天赦日を調べたところ、7日ありました。

1月1日/3月15日/5月30日/7月29日/8月12日/10月11日/12月26日

7-8月の間が半月くらいですが、それ以外は1~2ヶ月半くらい離れていますね。

それはともかく、佐兵衛が持ってきた「犬の対価にしては過剰な品物」は鴻池の主人の慶事ということで納めていただきたい、というのでした。更には、雄の犬をいただくということは、養子に頂いたようなもの、品物は結納替わりということで、と続けます。

佐兵衛の言葉で合点がいった主人は相好を崩します。「あ、さよか。相手は鴻池さんでおましたか!鴻池さんならこれくらいのことはあるやもしれん、こっちこそ失礼なことで・・あの犬も幸せなもんじゃこんな立派な家にもらわれるやなんて・・」

かくして黒犬は今池鴻池にもらわれていきますが、この続きは次回で。

 

 

 

 

果てには茶碗~鴻池の粋2

本題に入る前に、「鴻池の犬」の演目はyoutubeで検索していただくと、笑福亭松喬(しょうふくてい しょきょう:先代・六代目・故人)師匠の公式チャンネルでご覧いただけます。このチャンネル、130本余りの高座がアップされていて(ご遺族の管理する公式チャネルです)、上方落語のお好きな方はぜひお楽しみください。

繁昌亭の高座も数多くアップされています

それでは前回の続きです。

主人の口から冷ややかにでてきた言葉は「こないだの話、へんがいにさしてもらいます」というものでした。当時の商人(あきんど)言葉なのでしょう、なんとなく「白紙にする」「お断りする」という意味は通じるのですが、今では使わない言葉です。検索してみると「変改」がヒットして①変え改めること、改変②約束を破ること、とあり、ここでは②の意味で使われているわけですね。

驚いて「何ぞ、お気に障りましたか?」と驚く男に、主人の言葉は続きます。(少し長くなりますが商人の心根をあらわすところなのでそのまま紹介します)

ああ、障りました、えら障りじゃ。私ゃな、この町内に古くから住んでおりますで、人さんにちょっと名前を言うていただいただけで、どなたでもご存じ、世話もさせていただいて、いささか信用というものもいただいております。今まで犬の子一匹、猫の子一匹、もろたこともあげたこともないが、ものには相場というもんがおます。

じゃこの一掴み、鰹節の一本も持ってお越しになったら、あぁどうぞどうぞと貰うていただきますが、こら何でおます?人さんが持ってきなはったものに値段をつけて悪いが、鰹節がひと箱に酒が三升、反物が二反ついておりますな。

商家の主人の矜持が表れたセリフです(写真は堺:山口家住宅)

あそこの家(うち)は拾うた犬で銭儲けをした、と言われたら、私ゃこの町内を大きな顔して歩かれしまへんで。

まぁ察するところ、おたくには医者に見離された病人かなんぞがあって、占い師かなんぞに観てもろたら「全身真っ黒い犬の生肝を煎じて飲ませたら治る」とかなんとか言われてお越しになったように思う。三日でも飼えば情が移ります。そんなむごたらしいことはさしとうないで、せっかくでおますが、これ持って帰っておくれやす。

商人にとっての大事は金儲けだけではない、と主人の正論は江戸っ子の啖呵と遜色なく響きます。

男はそれを聞いて慌てて身分を明かすのですが、この続きは次回に。

 

果てには茶碗~鴻池の粋

今池鴻池家の代々の当主は善右衛門(2代目のみ喜右衛門)を名乗りますが、鴻池新田を開発したのは3代善右衛門宗利で、その後酒造業と海運業からは手を引き、金融・大名貸しと新田経営を中心に営むようになりました。

銭箱と千両箱(造幣博物館)

300あったという藩のうち、今池鴻池から融資を受けていた藩の数は110に上り、藩によっては経営コンサルタント的な人材を派遣し、藩政に関与したりもしています。

4代、5代、9代目の善右衛門は茶人として知られていますが、大金持ち=金満家として「鴻池の犬」、茶人としては「はてなの茶碗」にこの鴻池家が登場します。

「鴻池の犬」は「大店(おおどこ)の犬」、「はてなの茶碗」は「茶金」と題名を変えて江戸落語としても演じられるネタです。また、朝ドラ「ちりとてちん」で主人公(徒然亭若狭:貫地谷しほりさん)の兄弟子、小草若(茂山宗彦さん)が演じていて、そこに絡んだエピソードはどちらも笑いと涙をさそうものでした。

それはさておき、まずは「鴻池の犬」から。

船場のある商家の軒先に3匹の子犬が捨てられているところから話が始まります。真っ黒、真っ白、ブチの犬たちは商家の丁稚さんが世話をして犬たちも店の者たちになついてきたころ、通りすがりの男が「犬をもらえないか」と商家の主人に持ち掛けます。「黒い犬をもらいうけたい」と申し出ます。主人も「3匹もいるのは、と思っていて、いつかどなたかにもらってもらおうと思っていた」と、すぐに応諾するのですが、男の答えは「主人に相談し、日を改めて頂きに上がります、それではさいなら、ごめん」というものでした。

主人としてはなぶられた(からかわれた)と思って少し気に障っていたところ、ある日その男が紋付・袴に白扇を持ち、供を連れてやってきました。「先日のお話で、黒い犬をいただきに上がりました」という男に、商家の主人の答えは・・

それについては次回で。

 

 

 

新田花実が咲くものだ7

住之江区南加賀屋にある「加賀屋新田会所」をご紹介します。鴻池新田からは話がそれますが「会所」の役割を感じとっていただければと思います。

大阪メトロ四つ橋線終点の「住之江公園駅」から南に約10分のところにあり、周辺の地名は「南加賀谷」。(ちなみに住之江公園駅の一つ手前が北加賀屋駅です)

鴻池新田が東大阪市、つまり大阪の東で海からは離れたところにあるのに対して、ここ加賀屋新田は付け替えられた大和川の河口部分に開拓された新田です。

加賀屋新田会所 長屋門 入場無料です

名前の通り、こちらも町人請負新田で加賀屋甚兵衛が請け負っています。両替商の加賀屋に奉公して35歳で独立(同じ加賀屋を名乗っているのでのれん分けを受けたのでしょう)、享保八年(1723)から新田開発を始めました。のちには両替商を辞め新田開発・経営一本に打ち込んでいます。

会所は新田経営の拠点、事務所的な役割を担います。管理者として派遣する支配人がここで新田の農民から小作料を徴収して幕府へ年貢を納入するわけです。それ以外にも新田内の田畑、水路、橋などの維持補修、改帳(現在の住民票にあたるもの)の作成、老人への孝養米(現在の年金にあたるもの)の支給という役所的な業務に加え、もめごとの仲裁など警察と裁判所の役割も担っています。

加賀屋新田会所 玄関

商人の別宅としても用いられたようで、書院や庭園が設けられており、町人文化にも触れることができます。

加賀屋新田会所 書院

書院から茶室(右側)と庭園を臨む

前回、鴻池新田は耐震工事のため改修中と伝えしましたが、この加賀屋新田会所も床板がきしむ箇所があったりして(この時見学者は私一人でした)、来年以降まで見学ができないのは残念ですが、270年以上も前の貴重な建築ですし、改修の必要性を実感させられました。加賀屋新田会所がこれだけ素敵な場所ですので、より規模の大きな鴻池新田会所、改めて見学できる日が楽しみです。

次回は「鴻池」にちなんだ落語の紹介を。

新田花実が咲くものだ6

鴻池新田駅から徒歩約5分の住宅地の真中に「鴻池新田会所」が遺されています。新田開発後間もない時期の宝永四年(1707)に完成し、当時のものがほぼ残されていることから、史跡・重要文化財に指定され、郷土資料館となっています。

鴻池新田会所 入口(門) 手前の堀に橋が架かっています

最初にお伝えしておきますと、現在鴻池新田会所は耐震・修復工事のため、令和五年(2023)4月から閉鎖・休館中で、建物内部の見学はできません。3カ年計画での修復らしく、再開は令和七年度となる予定だそうです。そのためここに掲載する写真も外観だけですので悪しからず。

鴻池新田は商人である鴻池家が資本を投下して開発されました。土着の農民が耕作の傍らに近くの荒れ地を開墾するというレベルでなく、開発に専念しているためその間はなんの収穫もありません。

橋の脇から水路と橋

また、田畑となる地が生まれてもまだ耕作者がいない状態です。植民地(言い方が悪いかもしれませんが)と同じでその地で農業に従事し、小作料(そのために資本投下している訳ですから)を払ってくれる小作人を募らないといけません。会所に遺された資料に宝永二年(1705)9月には耕地の整地が終了とともに、小作人に貸し与える家屋が建てられ、東村と西村が誕生しています。この時期、東村には16軒、西村には14軒が入植しました。

新田の農民には「村抱(むらかかえ)百姓」と「入作(いりさく)百姓」がありますが、入植者は前者で、河内・摂津・大和の天領内農村から請け人(保証人)を立て、出願により小作人になりました。保証人を立てていることから、身元の確かな者をこの地に迎えたということですね。ちなみに後者は他の場所に耕作地を持ちながら、この地に耕作にやってくる百姓のことをいいます。

会所横に建てられた石碑

「会所」とは新田の経営拠点となった建物ですが、ここの会所内の写真がありませんので、次回住之江公園にある「加賀屋新田会所」の写真を使ってご紹介していきます。

新田花実が咲くものだ5

宝永元年(1704)2月から大和川付け替え工事が始まりました。「公儀普請(こうぎぶしん)」といって幕府が工事費用を負担するのですが、前年から「手伝普請(てつだいぶしん)」として姫路藩主本多忠国(ほんだ ただくに)にほぼ半分を負担するよう命ぜられたのですが、この忠国が享年39という若さで工事開始直後の3月に急死してしまいます。

現在大和川大阪市堺市の間を流れます(大阪市側から下流方面)

そのため、工事は一時中断されて姫路藩は普請の担当から外れます。姫路藩といえば15万石の大身ですが、その規模の普請を単独で負担させられる規模の藩が大坂周辺になく、明石・岸和田・三田(さんだ)の三藩が普請を命ぜられました。

結論として、幕府と三藩が個々の工事区間を受け持って競争するように進めたことで、当初3年かかるといわれていた付替え工事はわずか8ヶ月で完成します。

阪堺電気鉄道大和川橋梁 明治四十四年(1911)竣工

堺の海側から新たな流路を切り開いていきましたが、付替え地点の旧川側の堤防を切り崩して流れる方向を変え、旧川筋をふさぎ竣工したのが同じ年の10月13日のこと。

翌年の宝永二年(1705)から、旧大和川流域(旧川筋:久宝寺川・玉櫛川や新開池・

深野池)で新田開発が始まります。新開池周辺200町歩(200ha弱)にあたる広大な地域の開発権利を大和屋六兵衛・庄屋長兵衛両名が落札したのですが、鴻池善右衛門(三代目)が権利を譲り受け開発工事を行いました。三か年かかった工事中、日々善右衛門は駕籠で大坂の今池からここまで三里の道のりを進み、自らが工事の監督を行っていたと伝えられます。

この地に開かれた新田が、開発者の名を取って「鴻池新田」と呼ばれるようになりました。大和川付け替え工事でできた新田の中でも最大の開発面積(約119ヘクタール)となっています。

現在は住宅地に変貌した「鴻池新田」ですが、次回はこの地に残る「会所」をご紹介します。

 

新田花実が咲くものだ4

万年長十郎ですが、天和三年(1683)に畿内丹波・播磨・備中の代官となりました。この頃、原則として町人による新田開発(町人請負新田といいます)は禁止されていたのですが、元禄年間に大坂川口の新田開発を認めています。新田からの年貢増加による経済的利益を優先していたようです。万年の積極的な政策には当時の勘定奉行、荻原重秀の影響を見て取ることができます。

桜宮橋から大川(淀川)を臨む 中之島よりさらに上流部分にあたります

万年は新田開発・年貢増加という合理的・経済的な視点から大和川付け替えを検討し、荻原の指示で付け替え事業に取り組んだのではないかともいわれています。

付け替え不要を強調していた河村瑞賢は、元禄12年(1699)に工事を終えた後江戸に帰って間もなくこの世を去りました。同時期万年が大坂の堤奉行に着任(代官と兼任)しています。

いっぽう元禄十三年(1700)および翌年に大洪水が河内を襲いました。こうした出来事が重なって、付替えはやはり必要ではないかという方向に風向きが変わったようです。元禄十五年(1702)頃に洪水被害の検分に来た幕府の役人が、付け替えを検討していることを漏らしたようです。あきらめていた付け替えが実現するかもしれないと、流域の人たちは喜びました。地元の代表として中甚兵衛らが呼び出され、一挙に付け替えへと進んだようです。
この方針転換の主な理由は、経済的な問題であったと考えられています。

付け替え後の旧川筋に開かれる新田の開発権利を町人(商人)などに売却することで、3万7千両の収入が見込めることから、工事ではその3万7千両までを幕府が負担し、不足のほぼ同額は大名に費用負担をさせることで対応することとしました。

それにより幕府の工事費負担は不要とだけでなく、さらに新川によって潰れる土地の4倍の面積の新田からは、年貢が収入として見込めます。幕府が利益を得ることができると計算したわけです。

その新田開発の権利を買い取った一人が鴻池善右衛門でした。次回やっと鴻池新田の話に進みます。