おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

日本の舟と船4

「和船友の会」の乗船体験・櫓漕ぎ体験を行っているのは、横十間橋に架かる「海砂橋(うみすなばし)」の北西側。(錦糸町駅から都営バス「東22」で「千田」バス停下車)体験乗船を行ったのは昨年11月のことです。

四ツ目通りの千田バス停から東に約5分、「海砂橋」に到着します。

「海砂橋」西詰 奥に「和船友の会」の旗が見えます

受付時間前に着いてしまったのですが、そのおかげで友の会の皆さんが活動に向けて準備されている様子も拝見することができました。(9:30頃ちょうど「舟出し」を行っているところでした)

船を覆っている黄色のカバーを外し、船に蓋をするように置かれた板を取り外していきます。こういう情景を見るのは初めてなので、「ほぉー」と感心するばかり。

準備の風景

30分ちょっと待ったところで受付開始。水難事故対策のため、当然ながら救命胴衣をつけてこちらも乗船準備です。

子供用含めて救命胴衣が用意されています

用意された「かるがも」に乗ったのは4名。この舟は友の会のホームページによると(それぞれの船の簡単なプロフィールが掲載されています)「網船(あみぶね)」という種類で、長さ9.25m 幅1.64m 深さ0.61mあるそうです。ちなみに「網船」というのはそこから投網で漁をしていたわけですね。川での漁なのか、浜からは遠くない海なのかは聞き忘れてしまいました。

「かるがも」に乗り込みます

 旅客 10名 船頭2名 合計12名、とプロフィールにはありますが、乗客4名だったのですいぶんとゆったりとした状態で出発です。この続きは次回で。

日本の舟と船3

前回掲載の写真のキャプションに誤りがありました。お詫びして訂正いたします。
  誤:小松川親水公園 → 正:横十間川親水公園


さて、昨年秋都内で2回「ふね」に乗る機会がありました。一つは「神田川クルーズ(90分コース)」で出発地点は日本橋。

日本橋の真下からスタートです

日本橋川を北西に進み、大手町、一橋などを経て水道橋で神田川に入り東に進路変更します。そこから御茶ノ水から浅草橋を経て隅田川に出ると南下して永代橋の手前で再度日本橋川に入り、日本橋をゴールとする90分です。
ガイド付き(情報満載)でこの90分、まったく飽きさせないのがガイドさんの腕ですね。

「船」は数ある橋をくぐりながら進みます(神田川クルーズ)

3,000円(事前決済で割引あり)分の値打ちは十分あるコースです。

もう一つがボランティア団体「和船の友の会」が横十間川親水公園で行っている「和船乗船体験」です。友の会ホームページによると「和船友の会では和船の操船技術の向上および技術を伝承するための活動を行っております」と和船の乗船体験や櫓漕ぎ体験(いずれも無料!)などを実施されている他、それらに使用されている和船(現在6隻を保有中だそうです)のメンテナンスもされているとのこと。
ホームページには「江戸和船の特徴は舷側に張られた銅板です。これで江戸の粋を表現しています。銅板は張ってすぐに緑青がついて全面が緑色になります。この色と木造船の色の感じが江戸和船の特徴になっています。定期修理のときはこれらの銅板をすべて剥がして新しい銅板を張りなおします。そのための工房、工具、電動工具なども揃えております。」とあります。乗船体験の後には、実際に公園内の橋の下でメンテナンス中の和船を拝見させて頂きました。

メンテナンス中の和船

乗船体験と櫓漕ぎ体験については通常、第二日曜日、第四日曜日、第一、第三、第五水曜日が定例の操船日で、10時から14時30分まで受付されています。

「乗船体験」受付の風景

夏休みに関しては別スケジュールで毎週日曜日の開催なのですが、猛暑日ばかりか酷暑日のニュースも稀ではない昨今、「熱中指数」が31以上(危険)となった場合、操船中止となるそうです。次回は26日が操船日ですが、このあたりの情報については「和船の会」ホームページやフェイスブックなどでご確認下さい。

次回はこの乗船体験のご紹介です。

日本の舟と船2

「櫂は三年櫓は三月」(かいはさんねんろはみつき)ということわざがあります。似たような道具でも、その扱い(作業)の習得の難易度には大きな差がある、から転じて「何事も一人前になるには簡単ではなく、技術の習得には時間と努力がいる」という意味で用いられます。
より扱いが簡単な「櫂」から説明すると、漕ぎボートやカヌーをイメージして、漕ぎ手が操作しているのが「櫂」。英語でいうとボートのように船べりに差し込んで、そこを支点に漕ぐ道具は「oar」(オール)、カヌーのように支点無く漕ぐものは「paddle」(パドル)と呼ばれます。成立ちとしてはパドルが先です。

櫂(上)と櫓(下)の説明(浦安郷土資料館)

パドルの場合、舟の漕ぎ手は進行方向を向いて水を押すように掻いて進みますが、そのうちに後ろを向いて座り、舟の側面に櫂の支点を設置して長い櫂(オール)を引っ張って漕ぐ方が効率的なことから、こちらが主流になっていきます。

「櫂」が直線的な前後運動で推進力を生みだし舟を進めるのに対し、「櫓」はというとその動きは「円運動」なのだそうです。水上に出ている部分の「櫓腕(ろうで)」と、水中で推進力を生み出す部分「櫓脚(ろあし)、櫓羽(ろば)」とに分かれています。

櫓を左右に動かす際、引くときにひねりを加えることで揚力が発生して推進力を生み出しているのだ塔です。また、ボートを「漕ぐ」場合にオールは引くときに水中、押す時には水上にありますが、櫓は押し引きの両方とも、常に水中にあります。

こちらの方が体重移動だけで推進効力が高いうえに、櫓の角度や力のかけ方を変えることによって舟を回転、すなわち向きを変えることもできるという操船も一人で行える利点がありました。元々東アジアに広く分布しているのは、体格的に劣ったアジアで工夫された船具だからかも知れません

「櫓」は進むだけでなく舟の回転も行えます(横十間川親水公園)

こうした利点の多い「櫓」ですが、欠点らしい欠点はというと「扱いが難しい」こと。多機能であるだけにそれを使いこなすには技量が必要なわけですね。この続きは次回で。

日本の舟と船

運河の話は一旦置くとして、水路を行く交通手段には「ふね」が一般的です。(江戸時代の大井川の渡しのようなケースはごく稀なケースでしょう)
「ふね」の漢字表記には、舟・船・艇・舶・艦などがあるそうです。
一番シンプルな「舟」の字ですが、丸太をくり抜いた丸木舟の形を表しています。象形文字ですね。丸木舟は日本においても縄文時代のものが出土しているそうです。

そういえば、「古代蓮」として知られる「大賀ハス」は千葉県検見川の遺跡で発掘された丸木舟の中からハスの果托が見つかったことをきっかけに実の発見→発芽育成につながったことを思い出しました。

「大賀ハス」は千葉市の花に制定されました

copilotで「舟」と「船」の違いを聞くと

舟と船は大きさや動力の有無によって使い分けられ、小型で手漕ぎのボートや一般的にはエンジンがついていないものを「舟」、大型の水上移動手段を指し、エンジンがついているものが「船」だとの回答がありました。

栃木「蔵の街遊覧船」人力なので「舟」というべきでしょうか

さきほどご紹介した「ふね」を表す漢字の意味の違いとしては

舟…小さく人力で動かすふね

船…小型から大型まで幅広く使われる

艇…小型のふね、競技用など   「◯艇」等他の語と併せて使用されるのが一般的

舶…大型のふね、船

艦…主に軍用のふねに使用される 軍艦・戦艦・巡洋艦

というような説明がありました。この稿では日本の「舟」と「船」、いわゆる「和船」についてご紹介していきたいと思います。

樽廻船(西宮市郷土博物館)

まずは人力で進む「舟」ですが、漕ぐための道具として思い浮かぶのが「櫓」と「櫂」です。次回はその違いからご紹介していきましょう。

運河向いてる 堺編・番外

事件の直後、日本の郵便制度の父といわれる前島密(まえじま ひそか)は大久保の遺体を見て「「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現しています。彼がそのように表すのも、数日前に大久保と交わしたやりとりが予言のように思えたからかもしれません。

「西郷と自分は決して不仲ではなかった」ということを延々と繰り返したのち、前の晩に見たという夢の話を告げました。

自分が西郷と断崖の頂上で組打ちをしていたが、二人とも足をすべらせてはるかな谷底に落ちた。落ちたときに自分は頭蓋を微塵に割り、脳が飛びだした。死んだまま自分のその脳を見ていると、脳だけがぴちぴちと動いていて、じつにいやな気持がした。

今でいう「予知夢」のようなものだったのでしょうか。前島も遺体を見たときに不思議な思いにつつまれたことでしょう。

大久保公哀悼碑の説明板

大久保が馬車に持ち込んだ風呂敷包みには太政官の仕事で必要な書類のほか、西郷からの手紙が二通入っていました。一通は戊辰戦争の最中のもの、もう一通は大久保が欧州から送った写真への返事です。いずれも両者の仲の良さを示すような内容でした。「翔ぶが如く」では、

大久保は西郷を城山で殺したことをよほど苦のたねにしており、自分と西郷とはかつて余人の窺いがたいほどに仲がよかったことを人々にしきりに言いたがった形跡がある。(後略)

と手紙を持参していた理由について推察しています。

こうして西郷が亡くなった翌年、大久保もこの世を去りました。享年49、満年齢でいえば47歳でした。

浜寺公園周辺は関西有数の高級住宅地でもあります

この番外編で高師浜の話をご紹介したのは、あと二十年大久保が生きていたら・・ということです。本人の宣言の通り、十年間は政治家として辣腕を振るい、その後はこの堺の南郊にある松原周辺に邸宅を建てて隠棲、余生を過ごしたかも・・などと考えてしまいます。

そういえば、大久保が主張していたのは「大阪遷都」でした。(さらには江戸遷都を勧めたのは前島密です)家庭では子煩悩だったという大久保が、この隠棲地で孫たちに囲まれながら微笑む姿・・という人生を過ごさせてあげたかったような気もします。

さて、堺の話は以上です。運河と栄えた都市(ヴェネツィアと堺)をご紹介しましたが、いったん打ち止めとしますが、今後も小樽や栃木、佐原など、折に触れご紹介していきたいと思います。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

運河向いてる 堺編・番外14

6名の暴漢は、石川県士族の島田一郎・長連豪(ちょう つらひで)・杉本乙菊(おとぎく)・脇田巧一・杉村文一(ぶんいち)と島根県士族の浅井寿篤(ひさあつ)です。

首謀者島田一郎が大久保の動静を探り、この同志たちと襲撃のための会合を重ねたのが、四谷尾張町の知人宅です。それだけでなく「闇討ちは卑怯」との信念から、決行の

四、五日前に大久保宅に襲撃を予告する手紙まで送っています。

吾々(われわれ)、近日、君の首を頂戴せん・・

から始まる封書を目にした大久保ですが、まったく意に介さず普段通りの生活を続け、この日を迎えたのです。

紀尾井坂は以前ご紹介したように、紀州・尾張・井伊という大大名の屋敷のあったところですが、維新後それらの藩から宮家や公家が屋敷を安く買い取って住んでいました。ただ、これらの住人たちはかつての藩主たちのような家臣団を持っておらず、敷地には草が生い茂った、いわば荒れた状態で、人通りも少ない場所rと化していたようです。

清水谷公園内にある「大久保公哀悼碑」

馬車がやっと通れるかという細い道に、二人の書生が花を持って立っていましたが、これが一味のうち見張り役二人の扮装でした。馬車がやってきたことを確認すると、二人は花を捨て仲間に合図を送ります。公家の壬生邸の板囲いに隠れていた四人が飛び出し、一人が馬の前脚を薙ぎ払いました。御者の中村太郎は、主人の大久保を救おうと馬車から地面に下りた瞬間、袈裟懸けに斬られ即死しています。

ドアから出た大久保の右腕を、首謀者の島田一郎がつかんだ瞬間、大久保が「無礼者!」と叫んだ一言が最後の言葉となりました。護身のための武装を一切していなかったため、一味の襲撃になすすべなく全身に16もの傷(そのうち半数、8つの傷は頭部に対するものでした)を受けて斬殺されてしまいます。

紀尾井坂の変の話、続きます。

 

運河向いてる 堺編・番外13

大久保の自宅は麹町区三年町三番地にありました。この大久保邸について「翔ぶが如く」には次のように書かれています。

明治九年二月に竣工したこの大久保邸の壮麗さもまた西南戦争の無数の原因のひとつであったかと思える。かつて薩人たちはこの新邸を憎み、別の官衙の写真を鹿児島隠退中の西郷に示し「これが一蔵(利通)の新邸でごわす」として西郷の感情を刺激しようとしたいわくをもっている。

現在の衆議院第二別館あたりに大久保の邸宅があったようです

この記述に続き、鹿児島に戻った薩人たちは「東京派」の驕奢を憎んだだけでなく、福沢諭吉も薩系官吏の驕奢の指摘する旨も紹介されます。が、

大久保の邸宅はかならずしも華美ではない。この時代の建築の尖端である煉瓦造りではなく、木像の洋館で、洋館をえらんだのは、大久保にいわせれば「中外之雅賓」を接待するためのものであった。

と薩人や福沢の見方は否定されています。大久保の死後、財産としての現金が140円しかなかったのに対し、8,000円の借金だけでなく、この邸宅等もすべて抵当に入っており、金銭に潔白だったことが明らかになりました。

大久保は、赤坂仮皇居の明治天皇に謁見するため8時頃2頭立ての馬車に乗って出発します。「仮皇居」というのは明治六年(1873)に皇居(江戸城)が焼失してしまい、明治二十一年(1888)に新皇居(明治宮殿)が完成するまでの間、この場所にお住まいであったからです。

当時の「仮皇居」の跡には、現在赤坂迎賓館が建っています

馬車に乗っていたのは大久保の他に、御者(馬車の運転手)の中村太郎と従者の芳松(よしまつ)でした。8時30分頃、馬車が紀尾井町清水谷を通った時、6名の暴漢が馬車を襲います。この続きは次回で。