おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2022-01-01から1ヶ月間の記事一覧

精勤・成功・聖心・成婚4

ご成婚・パレードが行われた昭和三十四年(1959)は、昭和三十六年(1961)まで続く「岩戸景気」の最初の時期で、白黒テレビが爆発的に売れた他、電気冷蔵庫、電気洗濯機と併せて「三種の神器」と呼ばれた家庭用電気機器が日本全国に普及しました。 (「三種…

精勤・成功・聖心・成婚3

ご成婚当日のテレビ番組は、六時過ぎにの「正田美智子さん出発風景」の中継を行っています。(当時、早朝にテレビ放送はなく、NHKは六時から放送開始でした) つまり、この日のテレビ放送は、ご実家から皇居へ向かわれるところから、朝一番からこの放送一色…

精勤・成功・聖心・成婚2

昭和三十四年(1959)年明け時点で、東京のテレビ放送局はNHK(総合)、日本テレビ、KRテレビ(ラジオ東京テレビ⇒現在の東京放送・TBS)の三局で、チャンネルはそれぞれ「3」「4」「6」でした。前年十二月に日本電波塔(東京タワー)が開業したものの、まだ…

精勤・成功・聖心・成婚

塔頂に据え付けるアンテナは長さ94M、重さ110Tという巨大なものです。アンテナとして張り出す部分は上の80Mで、下の14Mは塔の中に収められます。全部で八個の部品で構成されており、それをウィンチで高さ300Mのまで持ち上げ、頭頂部の仮設鉄塔で組み立てて設…

テレ日是好日8

東京タワー建設の話に戻ります。着工した昭和三十二年(1957)の白黒テレビの普及率は7.8%でした。テレビの小売価格は7万3千円。放送開始当初(17万5千円)から比べると半分以下になったものの、一般家庭にとってはまだまだ手の出せる値段とはいえません。…

On the sonyside of the street

ちょっと脱線し、話は年が明ける直前の12月に遡ります。 銀座数寄屋橋のビルに、ある会社が広告を出すところです。 戦後すぐ、昭和二十年(1945)九月、日本橋三階に、小さな研究所が立ち上がりました。終戦直後のことで、まずはラジオの修理と改造を手掛け…

テレ日是好日7

高さの仕様変更は、電波塔の構造計算をやり直すことになります。今ならばコンピューター(スーパーコンピューター含む)を使って、シミュレーションを行えば簡単なことなのかもしれませんが、当時はコンピューターはおろか計算機すらありません。 計算も設計…

テレ日是好日6

スカイツリーの高さは634M、当初の予定では610Mの構想でしたが、当時世界一の自立式電波塔が中国広州の広州タワー(618M)で、世界一の高さにするため再検討し、武蔵の国とかけて634Mとなった、という話を開業当初聞いたことがあります。世界一を目指すため…

テレ日是好日5

先に完成までの日程を述べてしまいましたが、東京タワーは芝公園内に建っています。日本電波塔株式会社は、この公園内の土地を建設用地として入手しています。設計上では塔を支えている四本の脚(塔脚)の間隔は、約八十八メートルあるので、この真下の部分…

テレ日是好日4

日本テレビの開局の二年後の昭和三十年(1955)に、ラジオ東京テレビ(現TBS)が放送を開始、その後全国各地に民放テレビ放送局が開局していきます。 テレビが大衆の娯楽になる、ということは街頭テレビの状況を一目すれば明らかなことでしたが、それが一般…

テレ日是好日3

元々、日本テレビがテレビ放送予備免許を取得したのは、昭和二十七年(1952)七月のこと。NHKの予備免許取得は同年十二月、ラジオ東京テレビ(現在のTBS)が翌年一月でしたから、日本最初のテレビ放送は、日本テレビが実施していた可能性もあったわけで、実…

テレ日是好日2

「日本ビクター」は、米国ビクター社(The Victor Talking Machine Company)の日本法人として昭和二年(1927)に設立されました。戦前に製造された「反射式テレビ受像機」も、日本ビクターの製品で、NHKとともにTV放送の実現化に向けて研究を行っていたこと…

テレ日是好日

東京オリンピック返上の翌年には第二次世界大戦が勃発、更に昭和十六年(1941)太平洋戦争が始まる中で、テレビジョンの研究は中断されました。高柳健次郎を含む開発チームは、海軍技師としてレーダーや暗視装置、電波兵器の開発に協力していくことになりま…

浪費の休日 テレビの泉2

前回写真を掲載した「反射式テレビ受像機」ですが、写真をよく見ると、本体の平面にブラウン管らしきものがあり、本体に付属した蓋の内側にはめ込まれた鏡にその画面が映っています。その点が「反射式」の名前の由来です。 反射式テレビ受像機 説明(放送博…

浪費の休日 テレビの泉

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。 放送博物館の「ヒストリーゾーン」はラジオの歴史コーナーの後、テレビの歴史に関する展示があります。残念なことに、このコーナーの最初に展示されている「イ」の字の映されたブラウン管の実験の様子の展示は撮影不…

ラジオ・リスナーの嘆き7

よくドラマなどで、玉音放送の放送時に、昼のラジオの前に人が集まって聞いている情景が描かれています。お昼時なので、食事をしたり仕事中の人もいるはずなのに、何故皆がラジオの前に集まっていたのでしょうか? これは、前日の夜二十一時当日の朝七時二十…

ラジオ・リスナーの嘆き6

このあたりの話は、半藤一利先生が、「日本のいちばん長い日」として発表され、映画化もされました。録音を終え、皇居の坂下門から出ようとした下村情報局総裁と大橋放送協会長、他放送協会職員らは反乱を起こした近衛歩兵により身柄を拘束され、守衛隊司令…

ラジオ・リスナーの嘆き5

昭和二十年(1945)8月14日の午前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定されます。併せて昭和天皇はラジオで直接国民に呼びかけることも表明されました。当日十三時には、宮中で録音を行うことが放送協会に通達され、十五時から録音準備作業が始められました。日…

ラジオ・リスナーの嘆き4

この時期、日本は戦争への道を進んでいくわけですが、昭和十六年(1941)のラジオの受信契約者の数は662万件と、前年度比で約100万件増加しました。10年前の昭和六年(1931)年末が、放送開始後五年でやっと100万件を突破するくらいでしたので、契約者数が飛…

ラジオ・リスナーの嘆き3

二十八日午後十一時には、反乱部隊に対して武力鎮圧の命令が下されます。一方の反乱部隊側も、二十八日夜から二十九日にかけて包囲・鎮圧軍を迎え撃つ情勢となりました。二十九日午前五時十分には討伐命令が発せられ、戒厳司令部は近隣住民を避難させます。…

ラジオ・リスナーの嘆き2

昭和十一年(1936)二十六日、国家改造を目指した陸軍青年将校らが、下士官・兵士1,483名(1,558名の説もあり)を率いてクーデターを企てます。三十年ぶりといわれる大雪の中、午前五時過ぎに岡田啓介首相官邸、高橋是清大蔵大臣私邸などを襲撃する他、警視…

ラジオ・リスナーの嘆き

ラジオ放送の当初のニュース報道は、新聞社の輪番で無償提供された記事の原稿を、日本放送協会のアナウンサーが読みあげる形をとっていました。つまり、放送局自体が取材してニュースを報道する、というニュース番組は存在していませんでした。 1926年製 24…