おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧

自由な明日は、芦屋で光三昧

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。 大阪に単身赴任の辞令が出たとき、いくつ目かに思い浮かんだのが、(最初ではないです)「芦屋の旧山邑邸を見に行ける!」というものでした。正確には「旧山邑邸」という固有名詞は出てこず、「芦屋のアレを見に行…

愛象が尽きる3

払い下げを受けた弥助たちとて、象のことを愛らしく思って引き取ったわけではありません。引き取った分、飼育費以上にもうけてやろう、という魂胆もあったことでしょう。(象のふんだけでなく) さっそく見物料を取って象を見世物にしたようです。十年前には…

愛象が尽きる2

事件について話す前に、年間200両も飼育費のかかった象は何を食べていたのかを紹介しましょう。江戸にやってくるまでの宿所で用意されたのは、藁100斤、ササの葉150斤、草100斤、饅頭50個に大量の水だったと記録されています。1斤は600gとされているので、1…

愛象が尽きる

幕府でも年間200両以上という飼育費がネックとなり、引取りに手を上げる者はいませんでした。そのため、結果として象は浜御殿にて12年もの間飼われています。大名が望めば江戸上屋敷などに引き連れて見物することができ、また士分以上であれば浜御殿に出向い…

象する吉宗6

江戸にたどり着いた象は、真っ先に江戸城にいる吉宗のもとへ、ではなく、江戸市中を練り歩き、江戸市民の熱狂的な歓迎を受けた、とあります。練り歩いたルートを調べてみましたが、探し方が甘いのか見つけることができませんでした。 江戸でも他の地と同じよ…

象する吉宗5

この時、清涼殿に設けられた「象舞台」で見学を行ったのは、中御門横町の他に皇太子の昭仁(てるひと)親王(後の桜町天皇)、関白や左右の大臣らそうそうたる面々でした。公家たちは感嘆の声を上げ、天皇も異国からはるばるやってきた象が自分の前で頭を下…

象する吉宗4

碑文の文章をそのまま紹介すると芸がない(前回はまさにその状態)ので、後半はかいつまんで・・。 尼崎を出た一行は大阪で三泊しています。上方ではおびただしい見物人が象を見物したことが記録に残っています。享保十四年(1729)といえばこのブログでも触…

象する吉宗3

前回ご紹介した「尼崎城址」の石碑から約400m南東に「中国街道大黒橋跡」という石碑が建っています。 中国街道大国橋跡 石碑 表面に大きく「この道筋は、江戸期、中国街道といわれ参勤交代の大名行列も通った街道である」と彫られています。その上に黒く図…

象する吉宗2

翌年享保十四年(1729)の3月13日、雄の象一頭とその一行は長崎を出発して江戸に向かいました。現在なら長崎空港~羽田空港は飛行機で2時間足らず、JRの乗継ぎだと長崎駅~東京駅が7時間弱で到着できますが、交通手段のない当時のこと、九州と本州の間、関門…

象する吉宗

八代将軍吉宗は、キリスト教の文献を除く漢訳された洋書の輸入制限を緩和しています。ヨーロッパの科学技術を吸収し、産業を発展させようと考えてのことですが、それだけでなく吉宗自身が「新し物好き」だったのだろうと思います。 おそらくは、動物図鑑でも…

甘藷感激雨あられ2

日本橋小田原町の魚屋・佃屋半右衛門に男の子が生まれたのは元禄11年(1698)のこと。文蔵と呼ばれたその子供は幼いころより本を読むことを好み、将来は学問をしたいとの志を持っていたようです。が、家業は魚屋、両親としては学問に打ち込むのもほどほどに…

【再開】大阪へ呼ばれた男2

ほぼ一ヶ月ぶりの投稿です。単身赴任で引越しして、それ以降は外食も控えて(昼は別です)、なんと自炊も続けています。最近は100均の電子レンジ用蒸し器で温野菜を作り、皿に移さずそのまま塩コショウを振って食べ、手間を省いてます。 と、一人暮らしのズ…