おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2021-08-01から1ヶ月間の記事一覧

善え樹を養う~横綱の松~8

行事部屋へと向かう伊三郎の背中を見送る住職、昔ながらの国技のしきたりをかいくぐって、白木の軍配は使われるのだろうか、と半信半疑の想いで桟敷席に座り、どうなるものかと、固唾を呑んで土俵を見つめます。 白木の軍配は果たして・・ 大相撲の取組は進…

善え樹を養う~横綱の松~7

行事、木村宗四郎が闘病の末、死出の旅にたった際、病床の枕元には、白木のままの軍配がありました。これは、いつか立派な漆塗りに仕立てて晴れの土俵に立つよう、贔屓筋から送られたものでした。 白木の軍配の由来が語られます 遺された奥さんは、この軍配…

善え樹を養う~横綱の松~6

横綱山と鐘楼の間に、「報恩の碑」と刻まれた御影石の石碑が置かれています。表題には「軍配物語和讃」とあります。和讃とは、一般に仏・菩薩の教えやその功徳,あるいは高僧の行績をほめたたえる讃歌で仏教歌謡の一種です。ここでは仏様の功徳というよりは…

善え樹を養う~横綱の松~5

境内の鐘楼の東隣に、「横綱山」と呼ばれる山があります。山、とはいっても高さは1.5Mくらい。名前の由来はといいますと、昭和55年(1980)9月この境内で行われた子供相撲大会に、春日野理事長(栃錦)が一門の関取衆を連れて参加されました。 この年の5月に…

善え樹を養う~横綱の松~4

一人(一木?)横綱の窮地を救おうと、地元の人々が立ち上がります。2001年の調査で、近くにあった池の埋め立てによって水はけが悪くなり、それがもとで松の根が酸欠状態になっていたことが、樹を衰えさせていたことがわかりました。原因がわかれば、その原…

善え樹を養う~横綱の松~3

善養寺には力士の墓があったり、大相撲の行事が檀家であったり、境内で相撲大会が開催されるなど相撲と縁のある寺院でした。 影向の松の根元 昭和55年(1980)5月、この地で行事の法要が執り行われました。その際に、ライバル「岡野のマツ」があり香川県志度…

善え樹を養う~横綱の松~2

ここから先の話ですが、Wikipediaの「影向のマツ」の記載が最も詳しく書かれていて、色々調べてもそれ以上のことがわかりませんので、正直にそこから抜粋いたします。 (表現は若干変えて進めます) 当時の善養寺住職は、わが寺のマツを自慢に思い、寺の門前…

ええ樹を養う~横綱の松~

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。 しばらくは新たに外出を控えていて、手持ちの写真で過去に行った場所をご紹介していくことになりそうです。 小岩駅から東南方向に20分ほど、江戸川病院の隣(バスで行く場合はこの病院のバス停が最寄りです)に、小…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)10

緒方洪庵が亡くなったのが文久3年(1863)六月十日のこと。下谷の医学所頭取役宅で医学所頭取役宅で喀血したとの話を耳にした福沢は大いに驚きます。二三日前に洪庵のもとを訪れて、恩師の状況を知っていたのに、何が起こったのかと即刻駆けつけますが、すで…

みなもと太郎先生のご冥福を心よりお祈りいたします

本来であれば、昨日の続きを書くところですが、今日に限ってはご容赦ください。 「風雲児たち」の作者であるみなもと太郎先生が、8月7日に亡くなられていたことが、本日20日に報道されました。 「風雲児たち」は1979年から執筆が始まり、風雲児たちワイド版2…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)9

前回のエピソードは「陽だまりの樹」の中でも、しっかりと取り入れられていて、うまく本筋に絡めた形で紹介されます。また、「あとがきにかえて」の中では、「無類の女好き、という点では、恐縮だが私の父にそっくりだし、おっちょこちょいでだまされやすい…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)8

良仙のなじみの遊女の名前で、手紙を作り、誘いをかけようというのです。まず福沢が手紙の文章を考えます。しかし福沢が書いては男の筆跡なのがまるわかり、そこで塾生の中から御家流の書道の書き手に頼み、女性の筆跡らしく書かせます。そうしてできた手紙…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)7

「遊女のにせ手紙」と題されたエピソードで、手塚良仙(手塚治虫先生の曽祖父にあたります)の失敗談が語られています。 この項は、適塾生がみな地方から出て大阪にいる間、武家のような恰好をしてみたがっていた、という風について述べた後に、「江戸から来…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)6

改めて大坂に戻ったのが同じ年(安政3年)の11月ごろのこと。親の借金は払い終えたものの、学費を払うような余裕もない状態でした。 洪庵を親と同じように思っていた諭吉は、中津で起こったことをすべて話します。前回書きませんでしたが、中津藩家老のもっ…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)5

お話を安政3年(1856)の腸チフス全快時期に戻します。諭吉の兄が大坂蔵屋敷での勤務年期が明け、中津へと帰る時期になりました。諭吉も病は癒えたものの、とりあえず兄と一緒に帰ることになったのが五、六月のこと。いったん帰ったものの、八月にはまた帰坂…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)4

前回ご紹介したように、日本における二度目のコレラ流行は安政5年から7年の2年間続きました。このときの感染元はアメリカの軍艦ミシシッピ号からであることがはっきりしています。 泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず とは、嘉永6年(1853)の…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)3

嘉永7年(1855)11月に「安政」へと元号が改まりました。この年の1月にペリーの二回目の来航、3月に「日米和親条約」が締結され、翌月には京都の大火で内裏が消失しました。その年は地震が頻発し、これらの災厄・異変のため改元が行われたのでしょう。 しか…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)2

私の世代は緒方洪庵のイメージというと、小学校高学年の時に大河ドラマ「花神」の宇野重吉さんが思い浮かびます。同世代でも大河ドラマを見る習慣のない方や一回りふた周り若い世代だと、「JIN-仁」の武田鉄矢さんでしょうか。 もの静かで誠実そうで、かつあ…

仰げば尊しわが師の洪庵(「福翁自伝」より)

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。前の項では、疱瘡、いまでいう天然痘と、日本において種痘が根付くまでのいきさつを、手塚治虫先生の「陽だまりの樹」に沿う形でご紹介しました。 今回は、福翁自伝、つまり福沢諭吉の回顧した緒方洪庵と、また安政期…

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる7

今でこそ、大阪と東京は3時間足らずで移動できる時代ですが、鉄道も車もない時代、いきなり江戸で医学所頭取と将軍付の奥医師になってくれと言われても・・というのが正直なところだったでしょう。一度は健康上の理由から断った洪庵ですが、江戸幕府からの度…

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる6

「陽だまりの樹」作品中では、手塚良庵が江戸の種痘所の発起人の中心人物として描かれ、漢方医から命を狙われるシーンがありますが、おそらく脚色ではないかと思います。良庵の娘婿にあたる大槻俊斎が種痘所の頭取(所長といった方がわかりやすいでしょう)…

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる5

大坂で「除痘館」が開かれたのが嘉永2年(1849)、その後佐賀藩・福井藩など、開明的な藩主を持つ藩から、種痘苗は関東・東北へも広がっていきました。しかしながら、幕府のお膝元である江戸では、種痘所設立の要望は蘭方医の間で高まっていたものの、なかな…

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる4

洪庵自身が遺した「除痘館記録」から要約すると、 ・嘉永2年(1849)オランダの医師モンニッケ(モーニッケ)が長崎の小児に日本で最初の牛痘療法を始め、越前候(福井藩)松平慶永(春嶽)の命を受けた笠原良策(福井藩の町医)がその苗を入手、そののち、…

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる3

シーボルトはバタヴィア(現在のインドネシア首都、ジャカルタにあたります)から牛痘苗を持ち込もうとしましたが、赤道を経て日本に至るまでの間、肝心の苗が高い気温のために死滅してしまっていたため、人に苗を植えても免疫を得ることができなかったよう…