おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

根は口ほどにものを言う

移植工事は単純な工程だけでいえば ①桜を根まで掘り下げる(運べる状態にする) ②移植先に桜を運搬する(直線で600m、高低差は50m以上) ③移植先に桜を植える というものですが、これだけの巨樹で、しかも傷に弱い桜のこと、慎重に進めていく必要があります…

桜馬鹿~君よずっと幸せに4

昭和三十五年(1960)4月、ダムの堤防上の芝貼りを任されていた植木職人丹羽政光さんに電源開発の職員が声をかけます。丹羽さんは佐久間ダム建設で周辺の植樹等に実績のあった「庭政造園」の親方でした。 「お寺の桜を電源開発で移植することになっているん…

桜馬鹿~君よずっと幸せに3

笹部さんは自らの山林から苗木を移植や、老樹の世話を行うことはあっても、これほどの樹の移植の経験はありません。折しも笹部さん自身が京都向日町に持っていた桜の苗圃(びょうほ:苗木を育てる畑)を名神高速道路建設用の砂採取地として奪われ(回買い上…

桜馬鹿~君よずっと幸せに2

昨日、このブログ用に阪急宝塚線「雲雀丘花屋敷」にある高碕記念館を訪ねました。丘の斜面(この周辺すべてがそういうお屋敷なのですが)に造られた邸宅で庭からの眺めが素晴らしいだけでなく、ヴォーリズの設計建築として知られます。 高碕記念館からの眺望…

桜馬鹿~君よずっと幸せに

荘川桜の移植についてご紹介するにあたって、岐阜県に建設された「御母衣(みぼろ)ダム」の説明をしないといけません。 戦後の日本復興にあたって電力が慢性的に不足していたことから、日本国内の電力供給促進のため昭和二十七年(1952)「電源開発促進法」…

花は桜木、浪花節3

大阪の桜の名所として必ず挙げられるものに「造幣局の通り抜け」があります。江戸時代、この地には藤堂家(津藩)の蔵屋敷があり、敷地には多くの桜が植えられており、藤堂藩は春の桜の時期に屋敷を開放していました。藤堂藩というと、江戸の染井あたりの下…

花は桜木、浪花節2

自ら「桜男」と名乗り、桜に一生を捧げた「笹部 新太郎(ささべ しんたろう)。この人物のことはこの博物館を訪れるまで知りませんでした。 wikipediaの冒頭部分は氏の事を次のように記しています。 日本の植物学者。東京帝国大学在学中から桜の研究を始め、…

花は桜木、浪花節

鴻池の話は途中なのですが、今年の桜が終わる前に書いておきたいことがあり、ここから何回か桜の話にお付き合いください。 3年前の3月からブログを始め、最初の方で「ソメイヨシノ」(染井吉野)についてご紹介しました。江戸園芸が生み出した頂点の一つであ…

果てには茶碗~鴻池の粋7

駆け出したクロが戻ってくると、今度は「う巻き」をもって 「さぁ、これ食え」 「兄さん、これ何です?」 クロは弟に「う巻き」とはうなぎを卵で巻いたものであること、だんさん(旦那さん)が食い飽きたと見えて、これをくれたことを告げます。 「へぇ~聞…

果てには茶碗~鴻池の粋6

しばらく間があいてしまいましたが、弟との再会と果たしたクロのリアクションから。 病犬のみじめな境遇を聴いていたクロは、弟と町役の二匹の犬に向かって 「一丁目、二丁目聞いてくれ、これは俺が子供の時分に別れた弟や」 「え!弟はん!何とまぁ鼻筋がよ…

「舟を編む」とヅーフと日葡辞書3

ズーフ・ハルマの筆写ということでは、大坂の適塾の話が有名です。前々回写真も載せましたが、2階にある3畳ほどの小部屋が通称「ズーフ部屋」と呼ばれる部屋で、塾生たちがこの部屋にある一組の辞書を自身のものとするために書き写したのです。(それ以外に…

「舟を編む」とヅーフと日葡辞書2

蘭学の歩みについては、過去「蘭学ちょっと始め」等で触れました。全く辞書(蘭和辞典)の無い時代に、一冊の医学書を翻訳・出版(解体新書のことです)する苦労は想像を絶するものがあります。 蘭和辞典を作ろうとする試みはすでに18世紀中頃にありました。…

「舟を編む」とヅーフと日葡辞書

鴻池の話の途中ですが、BSプレミアムドラマ「舟を編む」が面白すぎて「尊い・・」。先日31日に第7回が終わり、あと3回を残すところになりました。ブログの鴻池の話がこのペースだと、ドラマについて話すのがシリーズ終わってからになってしまう・・。 という…

果てには茶碗~鴻池の粋5

「わて、今宮から来ました」 「今宮、そらまた遠いとこから来たんやな、なんでまたそんな遠いとこから?」 解説すると「今宮」というのは、今宮戎神社のあるあたりです。「今宮村」ということからも大坂の市街地から見ると南のはずれ、といったところでしょ…

果てには茶碗~鴻池の粋4

「これ、乗り物を用意せぇ」という鴻池の手代、佐兵衛の声がかかると立派な輿が運び込まれます。真ん中に緞子(どんす)のふかふかした座布団。昨日までは藁の上が定位置だったのが、いきなり座布団の上へ乗せられ、当事者(犬)は居心地悪そうにキョロキョ…

果てには茶碗~鴻池の粋3

男は自らの言葉の行き届かないことを詫びると、身分を明かしました。 私、今橋の鴻池善右衛門の手代で佐兵衛と申します。 佐兵衛が言うには、この家のぼん、つまり男の子が真っ黒な犬を飼って「クロ、クロ」と呼んで毎日遊んでいたのですが、この犬が先日病…

果てには茶碗~鴻池の粋2

本題に入る前に、「鴻池の犬」の演目はyoutubeで検索していただくと、笑福亭松喬(しょうふくてい しょきょう:先代・六代目・故人)師匠の公式チャンネルでご覧いただけます。このチャンネル、130本余りの高座がアップされていて(ご遺族の管理する公式チャ…

果てには茶碗~鴻池の粋

今池鴻池家の代々の当主は善右衛門(2代目のみ喜右衛門)を名乗りますが、鴻池新田を開発したのは3代善右衛門宗利で、その後酒造業と海運業からは手を引き、金融・大名貸しと新田経営を中心に営むようになりました。 銭箱と千両箱(造幣博物館) 300あったと…

新田花実が咲くものだ7

住之江区南加賀屋にある「加賀屋新田会所」をご紹介します。鴻池新田からは話がそれますが「会所」の役割を感じとっていただければと思います。 大阪メトロ四つ橋線終点の「住之江公園駅」から南に約10分のところにあり、周辺の地名は「南加賀谷」。(ちなみ…

新田花実が咲くものだ6

鴻池新田駅から徒歩約5分の住宅地の真中に「鴻池新田会所」が遺されています。新田開発後間もない時期の宝永四年(1707)に完成し、当時のものがほぼ残されていることから、史跡・重要文化財に指定され、郷土資料館となっています。 鴻池新田会所 入口(門)…

新田花実が咲くものだ5

宝永元年(1704)2月から大和川付け替え工事が始まりました。「公儀普請(こうぎぶしん)」といって幕府が工事費用を負担するのですが、前年から「手伝普請(てつだいぶしん)」として姫路藩主本多忠国(ほんだ ただくに)にほぼ半分を負担するよう命ぜられ…

新田花実が咲くものだ4

万年長十郎ですが、天和三年(1683)に畿内と丹波・播磨・備中の代官となりました。この頃、原則として町人による新田開発(町人請負新田といいます)は禁止されていたのですが、元禄年間に大坂川口の新田開発を認めています。新田からの年貢増加による経済…

新田花実が咲くものだ3

話を前々回に戻します。安治川が開削されたことと、少し上流の中之島近辺でも島の北側の堂島川を掘り下げることによって、南側の土佐堀川との分流を促したことにより、下流河口付近の流れは大きく改善されました。また安治川は大坂の水運を担う重要な水路に…

新田花実が咲くものだ~番外編:安治川隧道

前回安治川の写真を載せました。手前に大きく映っていたのが阪神なんば線の鉄橋、奥がJR大阪環状線の鉄橋です。この2つの鉄橋は300m強離れています。地図で示すとしたの地図のような位置関係になっています。 前回の写真撮影地は「南安治川通」地図の右端よ…

新田花実が咲くものだ2

前回「大和川の付替工事」についてご紹介する、と書いたのですが、江戸時代の大坂の治水工事の歴史をご紹介するにあたって、付替工事の20年前、貞享元年(1684)に行われた安治川(あじかわ)開削工事について触れておくことにします。 安治川 手前の鉄橋は…

新田花実が咲くものだ

「舟を編む」が第四話まで進みました。回を追って面白くなっていて、原作にはない岸辺みどり(ドラマの主人公:池田エライザさん)の家庭事情などもこれから描かれていくようで、先が楽しみです。言葉は生き物で変わっていくものですが、その変化にも歴史が…

貸した金返せよ~♪ 借金大名

今池鴻池家が本格的に大名貸を行ったきっかけとなったのが、岡山藩池田家の蔵元(くらもと)・掛屋(かけや)の双方を任されたことでした。 後楽園からの岡山城天守閣 蔵元というのは、文字通り蔵の元締役。大坂には各藩の年貢米などを保管するための蔵があ…

浪花ともあれ 先立つものは銀2

秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょうかへい、とも)は現在社会においては、公式に流通している国はありません。江戸時代の金貨といえば小判を思い浮かべますが、銀の場合貨幣といっても丁銀は小判のような整った形ではありません。 江戸時代の銀貨(…

浪花ともあれ 先立つものは銀

慶長十四年(1609)に江戸幕府は金1両=銀50匁(目)=銭4貫文(4000枚)と定めました。これを御定(おさだめそうば)といいます。つまり金銀銭の交換比率を固定化させたわけですが、これが形骸化します。 というのも、江戸を中心とする東日本では金が流通す…

分かれても数奇な糸2

父新右衛門が大坂で起こした事業は、善兵衛秀成(次男)・又右衛門之政(三男)・善右衛門正成(八男)が引き継いでいますが、善右衛門が九条で海運業を始めたのが寛永二年(1625)とされていますが、その頃まだ二十歳前の若者です。父が大きくバックアップ…