おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2022-08-01から1ヶ月間の記事一覧

涙、武士だよ人生は9

「ディアナ号」から救出されたロシア人乗組員約500人は陸路戸田村へと向かいました。一方幕府から造船の指揮を任じられた英龍も、12月6日韮山の地から戸田へと向かいます。 戸田で西洋船建造の方針が決められました。「ディアナ号」に乗船していた技術将校モ…

涙、武士だよ人生は8

英龍はその申出を受けました。宮島村から戸田村までの海沿いの漁師たちに、漁船で「ディアナ号」の曳航に協力するようお触れを出し、12月2日早朝、百艘以上の漁船・荷船が宮島村沖に集まりました。「ディアナ号」に数本の元綱をとりつけ、そこから綱を枝分か…

涙、武士だよ人生は7

宮島村の村民たちが、海岸に近づいたボートに向かって泳ぎだします。ボートに結ばれた太いロープを手に取ると、今度は浜向かって引き返し、浜に残っていた男女に渡すと一緒にロープを浜の松の木の幹に結び付けました。 2日間かけてディアナ号乗組員の救出作…

涙、武士だよ人生は6

この戸田の地が修理港として選ばれた最大の理由として、海に面した西側以外の三方が山に囲まれており、英仏と交戦中のロシア船ディアナ号にとって、敵の目に触れにくいということがありました。 Google mapより 下田の反対側で、韮山のある伊豆の国市から近…

涙、武士だよ人生は5

この下り、話の内容にまつわる写真がなく、無理やりこじつけた写真が混じりますがご容赦ください。安政東海地震後の津波で、ディアナ号は前回ご紹介の損傷の他、大砲の下じきとなった水兵1名が死亡、2名が重傷を負った、と記録されています。 大和ミュージア…

涙、武士だよ人生は4

プチャーチンが幕府の要請を受けて下田に来航したのは10月14日のこと。これまで表記してきた日付は日本の暦によるもので、ロシアを含むヨーロッパの暦では12月3日にあたります。ここでその話をしたのは、ここから先、日本暦では年末なものが、西洋暦では翌年…

涙、武士だよ人生は3

プチャーチンは長崎⇒上海に移動しますが、長崎に滞在しているとクリミア戦争の様相やアジアにおける、敵国イギリス・フランスの情報を入手することができない他、船のメンテナンスもできない状態だったからだと思われます。 その間、英龍は品川台場の築造に…

涙、武士だよ人生は2

前回、年表形式で英龍に関わる出来事を並べていきましたが、ここに「プチャーチン」と「安政東海地震」「ジョン万次郎」というこれまで出てきていないワードが出てきました。 韮山江川邸の「坦庵公と一緒に写真を」フレーム プチャーチンは、ロシア帝国の海…

涙、武士だよ人生は

この前後の江川英龍と日本を取り巻く状況は目まぐるしく、それに振り回された多忙な日々が続いています。先にあらすじを書くようですが、何が何だかわからなくなる(書く方も)ので、先に年表形式で時系列に並べます。 嘉永六年(1853) 6月 ペリー(アメリ…

反SYAROってなんJARO2

反射炉は鉄を溶かす施設ですが、それだけでは大砲を作ることができません。鋳型に鉄を流し込んで冷却し、砲身の外形を作りますが、これだけでは凹凸のある鉄柱にしか過ぎません。弾を撃ち出せるよう内部を空洞にしなければならないわけです。(砲腔:ほうこう…

反SYAROってなんJARO

ちょうど3年くらい前に、日本テレビの「鉄腕ダッシュ」の中のコーナで反射炉を作るという企画がありました。そこで紹介されていた日本の反射炉が、「韮山反射炉」です。確か2年半かけて作ったという話でしたが、改めて番組HPで確認すると、およそ2年半、880…

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で4

街歩きにスマホのgoogle mapで経路を調べることがあると思いますが、「大江戸今昔めぐり」というアプリを使うと、江戸時代の地図と現代の地図を重ねて見ることができ、散歩に楽しみが増します。 御殿山下台場跡の紹介にあたっては、今の品川の地図では想像も…

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で3

お台場公園(第三台場)の砲台跡近くにでは面白い試みがありました。 砲台跡に大砲を合成して写真が撮影(スクショ)できます 看板に掲載されたQRコードを読み込ませて、砲台に画面を合わせることでARで復元した大砲が表示されるというものです。 実際、台場…

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で2

当初の予定を大きく縮小して終了した台場築造ですが、ペリー艦隊は品川沖まで接近したところで、この砲台を見た後に六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)まで戻っていますので、台場築造が一定の心理的影響をペリーに与えることができたのではないかと…

台場だったの魂宿し~レインボーブリッジの傍で

工事は嘉永六年(1853)八月末に着手され、昼夜兼行で進められました。翌年には再びペリー率いる艦隊がやってくるわけですから、急いで工事を行うのは当然と言えば当然ですが、土木労働に従事した人夫の数は第一・第二・第三台場築造時で5,000人にも及び、総築…

台場ーシティへの道4

天保十四年(1843)に鉄砲方を命ぜられた英龍ですが、同年筆頭老中の水野忠邦が行っていた「天保の改革」の失敗により失脚してしまいます。この政変にも鳥居耀蔵の裏切りが関わっていますが、そのあおりを受け、翌年英龍も鉄砲方の職を罷免されています。そ…

台場ーシティへの道3

話を天保十二年(1841)、徳丸ヶ原での砲術演習の時期に戻すと、この時に兵士に対して掛けられた号令は、オランダ語がそのまま使われていました。英龍もこの方式で当初農兵への訓練を行っていましたが、慣れない言葉では兵が理解できず、なかなか思い通りの…

台場ーシティへの道2

大砲の試射を行うにも、韮山周辺の農民を誤って傷つけたり、田畑に被害を与えないように配慮して適切な場所を測量・調査しています。また、前回「爆裂弾の開発・研究も行っていました」と書きましたが、爆裂弾は中に詰めた火薬とそれを爆発させる時間を調節…

台場師弟への道

佐久間象山は元々儒学者で、神田お玉ヶ池にて「象山書屋」という私塾を開いていました。この時期洋学の必要に目覚め、わずか2ヶ月でオランダ語をほぼマスターしたという鬼才です。松代藩では名の知れた人材であった彼は自尊心も強く、独り短期間で砲術をマス…

砲術は爆発だ~ 江川太郎左衛門7

この演習で高島秋帆と徳丸ヶ原の名前は全国に知られるようになり、秋帆は砲術の専門家として幕府に徴用され、「火技中興洋兵開基」と老中阿部正弘から称賛されました。 板橋区郷土資料館の紹介映像より 高島秋帆肖像画 余談ながら徳丸ヶ原については、昭和三…