おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2024-01-01から1年間の記事一覧

「まめだ」を拝聴4

何が不思議や? 今日も一枚。イチョウの葉が入ってんねやがな。それにな、考えてみたら昨日も来たんじゃが、ついぞ見たことの無い色の黒い陰気な子供があんな絣(かすり)の着物着て‥どうもあの‥ 何をごじゃごじゃ言うてんねんな‥一銭ぐらいええやないか、儲…

「まめだ」を拝聴3

黒い影が悲鳴を上げて逃げていくのを、右三郎は ざまぁ見さらせ、まめだめ!しょうもない悪ささらすさかい、痛い目に合わなならんのじゃ といいながら、三津寺(みってら)の前の向かいにある家に帰り着きます。 道頓堀には「角座」「浪花座」「中座」「朝日…

「まめだ」を拝聴2

「まめだ」とは関東地方ではあまりなじみのない言葉ですが、関西から西の地方では「豆狸(まめだぬき)」を「まめだ」と呼びます。人に憑く狸の妖怪を指しますが、小さい狸、すなわち子狸もそのように呼び、落語の中でもこの意味で使われています。 小さな狸…

「まめだ」を葉イチョウ

前回まで塙保己一の流れで、当初考えていなかった荻野吟子まで話を進めてしまい、12月頭くらいに書くつもりだったのが、気づけばもうクリスマス&年末。少し季節外れですが、今年の異常気象に免じてご容赦下さい。今年は秋の訪れと同様、紅葉も遅れていまし…

生涯を終えて15

志方と丸山は横浜港を出て十日後に瀬棚港に上陸しました。この地は江戸時代寛政期からニシンの漁場として栄え、海沿いは出稼ぎの漁夫で賑わった土地です。が、彼らが入植し開拓する内陸部はというと、川沿い(利別川)には樹が生い茂っており、一本一本大木…

生涯を終えて14

志方之善は何の計画もなく北海道開拓の夢を抱いていたのではありません。同志社の先輩で同郷(熊本県)の牧師、小北寅之介から自由党熊本県党首の田中賢道(たなか けんどう)に紹介を依頼、さらに田中賢道から犬養毅(いぬかい つよし)宛の紹介状を書いて…

生涯を終えて13

元治元年(1864)熊本に生まれた志方は、明治十九年(1886)に新島襄から洗礼を受けキリスト教徒となり、その一年後伝道者を志して同志社英学校に入学しました。 志方は同志社英学校の学生でした 写真は京都同志社大学クラーク記念館 ちなみに荻野吟子が洗礼…

生涯を終えて12

明治十八年(1885)3月、後期開業試験に合格した吟子はその直後に母を失うという悲しい出来事にも遭いました(「花埋み」では長与局長に面会するより前の話になっていますが)が、5月東京本郷三組町(現在に文京区湯島2,3丁目)に「産婦人科荻野医院」の看…

生涯を終えて11 壁は取り払われた

「前例がない」ことが障壁となっている、ということは裏を返せば「前例があれば」壁は打ち払えるということ。その「前例」に吟子に思い当たることがありました。古代の日本にあった「女医(にょい)」という存在です。宮中の医薬・薬園などを司る役所「典薬…

生涯を終えて10

「衛生局」で調べると、「文部省医務局から改称」「現在の厚生労働省の前身」とあります。さらに「衛生」という言葉も、この長与専斎がhygiene(病気にならないために清潔な状態を保つこと)の訳語として採用されたものだそうです。肥前国大村藩の漢方医の息子…

生涯を終えて9

好寿院卒業の年、吟子は31歳。この時代に医師になるには、①政府の医師開業試験を受けて合格する、②官公立の医学校を卒業し開業免状を出願する、③外国の医学校を卒業し開業免状を出願、のいずれかの方法をとらねばなりませんでした。②と③は卒業さえしていれば…

生涯を終えて8

家庭教師に行った先に海軍兵学校の教官、農商務省の書記官の他、豪商高島嘉右衛門の家庭もありました。高島嘉右衛門についてはかつてこのブログ「占わナイト ヨコハマ~♪」で触れていますが、新橋~横浜間の鉄道工事において横浜側周辺の工事を請け負い、そ…

生涯を終えて7

石黒忠悳は軍医監であるとともに文部省御用掛を兼務しており、東京大学医学部綜理心得をいう役職に就いていました。 現在の東大病院(当時の建物ではありません) 弘化二年(1845)生まれの石黒が30歳になった頃のことで、自身の回顧録にもこの時のことが残…

生涯を終えて6

荻野吟子の一生を題材にした小説としては、渡辺淳一先生の「花埋み(はなうずみ)」がよく知られている他、吉村昭先生が江戸時代から明治期までの医師を描いた短編集「日本医家伝」でも取り上げられています。 井上頼圀は前回ご紹介したように国学者であり漢…

生涯を終えて5

荻野吟子がこの世に生を享けたのは嘉永四年(1851)のこと。ペリー提督来航の2年前にあたり、渋沢栄一が生まれてから11年後にあたります。名字帯刀を許された名主の家の末娘として恵まれた環境の中で育ちました。子供のことから聡明でしたが、父親は吟子が16…

生涯を終えて4

「埼玉県の三偉人」で検索すると、塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子の三人がヒットします。渋沢は保己一の偉業顕彰と「群書類従」等の版木の保存のための温故学会の発起人の一人でもあり、彼の蔵書「青淵文庫(せいえんぶんこ)」にも和学講談所が出版した「群…

生涯を終えて3

「死んでも死なぬ」では、「余談だが」と後日譚を始めます。 塙次郎の子が、塙忠詔である。すでにこの時三十一歳で、父の横死後家禄を継ぎ和学講談所付を命ぜられた。祖父、父同様、歴とした幕臣である。 ところが維新後、忠詔は幕臣、かつ「奸賊」の子であ…

生涯を終えて2

司馬遼太郎先生の「幕末」は、桜田門外の変に始まる暗殺事件をテーマにした連作集で、12作品の中の「死んでも死なぬ」は井上聞多(維新後、馨)の幕末を描いています。物語は品川御殿山に建設中であった英国公使館焼討の話からはじまり、その後の英国留学を交…

生涯を終えて 保己一の死後

長男、次男は幼くして亡くなっており、三男は他家へ養子に出ていたことから四男の次郎(後に忠宝:ただとみ)が後をつくことになりましたが、まだ10代半ばでした。また目の見える次郎は当道座の一員ではありませんから、相続したのは「和学講談所御用掛」の…

障がいを越えて33

保己一が和歌と国学を萩原宗固に学んでいたことは既にご紹介した通りですが、「群書類従」666巻のうち「和歌部」は157巻、「連歌部」は4巻と1/4近くを歌に関する書物が占めています。当然和歌に関する知識も相当なものであったでしょうし、保己一自身も和歌…

障がいを越えて32

実際、当道座のトップにあたる総検校に就くと旗本・大名並みの格式を得られることから将軍へのお目見えを許されるのですが、この時の保己一はトップ10のうちの一人にすぎない存在でした。 ついに将軍へのお目見え・江戸城登城が許されました(これは2度目の…

障がいを越えて31

享和三年(1803)、58歳のとき、当道座の惣録職(そうろくしょく)に就任します。関八州の盲人を束ねて支配化に置くという役職です。何となくトップの役職のように思えますが、一座のトップは総検校といって京都に在住するのが慣例の別の職位です。勾当から…

障がいを越えて30

和漢講談所では「群書類従」他にも出版事業を行っていて、この時期=寛政十一年(1799)までに原稿の校正や版木の制作・出版まで進んでいました。 令義解(りょうぎのげ):天平時代(8世紀半ば)に施行された法令「養老律令」(ようろうりつりょう)の解釈…

障がいを越えて29

寛政七年(1795)12月、保己一は幕府に対して「群書類従」の一部(43冊)を献上、その功に対して白銀10枚を賜った、とあり、座中取締役も勤めながら彼のワイフワークは着々と進んでいたことがわかります。実際この年から「群書類従」の刊行が始まっています…

障がいを越えて28

まだ保己一が保木野一と名乗っていた衆分のころ、「豊一」という同僚がいました。同じ雨宮検校の弟子で同じ衆分の位ですが、そのころの保木野一が音曲にも不器用で貸金の取立てが苦手だったのに対し、豊一は金貸しの才能があったようです。その才で数年で師…

障がいを越えて27

次の場面で二代目藪原検校は悪事が露見し捕縛されますが、検校という位や、おそらく各方面に金をばらまいたおかげで、小伝馬町の牢屋に収監されることもなく、四谷の寺の「預り」となりました。正式に判決が下されるまでは、寺の外には出られないものの、中…

障がいを越えて26

唐突に井上ひさしさんの「藪原検校」をご紹介しましたが、この戯曲の中に塙保己一が登場しています。作品の中で主人公杉の市(後の二代目藪原検校)と保己一は二度対面しています。一度目はまだ勾当時代の保己一のところへ、座頭初心の杉の市が弟子になろう…

障がいを越えて25

「世事見聞録」が世に出たのが文化13年(1816)頃といいますから、保己一が座中取締役に選ばれてから20年ちょっとが経過しています。が、現在に比べ世の流行り廃りがゆっくりとした時代のこと、それほどの大きな違いはないかと思います。 この本の中で 今の…

障がいを越えて24

和学講談所の設立の10年前、天明三年(1783)に保己一が検校の位に昇進したことは以前にご紹介しました。そして講談所設立の翌年、寛政六年(1794)に寺社奉行から「座中取締役」に任命されました。一座の取締役ともいうべきこの役に就いたのは二人。もう一…

障がいを越えて23

保己一のことを謳った川柳が2つあって ひとつは 番町にすぎたるものが二つあり佐野の桜と塙検校 もうひとつが 番町で目明き盲に道を聞き というもので、「番町」の言葉が共通していますが、和漢講談所のあった地名です。 前回紹介した「和学講談所」跡地の…