おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

2023-12-01から1ヶ月間の記事一覧

ハマの大将軍3

文化二年(1805)9月に行われた鴨猟での家斉の「猟果?」は次のようなものでした。 真鴨11羽 小鴨2羽 尾長鴨3羽 大鷺1羽 小鷺1羽 鴨(どの種類にあたるのかは? 北の丸公園) 将軍自らの獲物のことを「御拳(おこぶし)」といいます。鷹は拳(もちろん厚い皮…

ハマの大将軍2

「鷹狩り」というと、広大な原野と、獲物を追い立てる犬や家来たちをイメージします。しかし、浜御殿で行われていた鴨猟は戦国時代に織田信長や徳川家康が行っていた「鷹狩り」とちょっとやり方は違うようです。 戦国時代や吉宗までの「鷹狩り」の獲物は鶴や…

ハマの大将軍

東京汐留にある浜離宮恩賜庭園、広さ25万㎡と都立公園としては最大の規模を誇ります。この庭園については過去徳川綱吉や吉宗のところで取り上げてきました。 しかし歴代将軍の中で最もこの庭園を愛用し、整備したのは家斉の代といえるでしょう。また、ほぼ今…

大師の前の弔事2

30歳半ばの急逝、将軍参詣のプレッシャーや心労が原因だったのでしょうか。夜を徹しての準備が行われていたといいますから過労死に近いものだったのでしょう。お寺としては「貫主が亡くなったので御成りは中止に」などと言えるはずもなく、上人の死を隠した…

大師の前の弔事

毎年初詣で多くの参詣者を集めるお寺に、川崎大師があります。初詣の参詣数でいうと明治神宮、成田山新勝寺とここ川崎大師が常に1-3位となっているようです。(ちなみに4位が浅草寺、5位が伏見稲荷大社) 毎年 初詣の人出でにぎわう川崎大師 川崎大師は通称…

打算の多産2

幕府に対する人質の意味から、江戸時代の大名の正室・嫡子は皆江戸に住んでいました。大名や正室が住んでいたのが各藩の江戸上屋敷です。加賀前田家の上屋敷は江戸城の約3km北の本郷(文京区)にありました。 前田家が当初財政負担からこの縁談を断ろうと…

打算の多産

53人の子女をもうけた家斉は好色でもありましたが、吉宗-家重-家定という血脈が途絶えてしまい、自身が将軍となったことを踏まえて、自身が健康であること、そして子孫を多く残すことを大目標に掲げていた様子が見られます。 白牛の乳から白牛酪(はくぎゅ…

ガキの他界やあらへんで5

ドラマ「大奥」で、仲間由紀恵さん演じる一橋治済が家斉に毒を盛ろうとします。狂っていたはずの御台(後の広大院:連佛美沙子さん)と大奥総取締役となっていた元側室お志賀の方(・滝沢:佐津川愛美さん)との共謀で、治済の企みは自分に跳ね返るのですが…

ガキの他界やあらへんで4

乳を与えるのにも直接眼にしたり直接抱くことさえできないわけですから、乳児と添い寝などはもってのほか。お目見以下の御乳持のことを大奥の身分の高い女中たちは見下していたようです。しかも育児の経験のある御乳持に対し、大奥勤めの女中は子供を産み育…

ガキの他界やあらへんで3

この項の話題は文春新書「遊王 徳川家斉」(岡崎 守恭先生著)に基づき、かいつまんでご紹介しているので、より詳しく知りたい方は本書をお勧めします。さて、前回乳母のことを御乳持(おちもち)と紹介しました。これは乳を与えるだけの仕事で、子育てをす…

ガキの他界やあらへんで2

前回、成年までの「生残り確率」を示しましたが、成年はおろか、約半分の子女は3歳以下で亡くなっています。当時は数え年年齢ですから満年齢でいうと2歳以下。 ライトノベル「薬屋のひとりごと」でも冒頭部分で帝の御子が次々と亡くなる事件が起こります。主…

ガキの他界やあらへんで

幕臣川村修富(かわむら ながとみ)の日記に、「大奥の女中に懐妊した人があり、例のように処理せよとの平岡美濃守殿のお達しがあり、自分の順番で取り扱った」という内容のことが記されています。 この平岡美濃守については、前回定信の危機一髪を機転で回…

解任と懐妊

寛政五年(1793)、定信は将軍家斉と父一橋治済の意向に真っ向から反対、退けました。30歳半ばの老中が20歳そこそこの将軍を諫めたやりとりを「続徳川実記」は次の逸話を伝えています 怒った家斉が傍にいた小姓から刀を受け取り、定信に斬りかかろうとするそ…

上皇 上皇  上皇上皇上皇 明日から上皇3

高山彦九郎の場合、幕府の監視の目が厳しくなり、包囲網の強化から追い詰められた結果、「自刃」という悲劇的な結末となりました。 朝廷に対しては、尊号の宣下は「決してご無用の事」としてきっぱり拒絶するとともに、この騒動を起こした責任者として、議奏…

上皇 上皇  上皇上皇上皇 明日から上皇2

朝廷からの「宣下断行」の通告に、定信は大いに憤慨します。朝廷で「群議」が行われた少し前、朝廷と幕府(定信)との間で調整役を務め、比較的良好な関係を築いていた鷹司輔平(たかつかさ すけひら)が関白を辞めています。輔平は典仁親王の弟にあたり(鷹…

上皇 上皇  上皇上皇上皇 明日から上皇

朝廷の公家たちにしても、そのことに異存はありません。天明八年(1788)、権大納言の中山愛親(なかやま なるちか)が江戸幕府に対し、「典仁親王(親王といっても天皇の実父ですが)に太上天皇の称号を贈りたい」旨の進言・通達を行いました。 官位を与え…

上皇の兆候

話は変わりますが、今から4年前の平成三十一年(2019)4月30日に、第125代明仁(平成)天皇が退位して「上皇」となり、翌5月1日徳仁(令和)天皇が即位し、元号も「令和」となりました。 当時、譲位によって皇位が継承されるのは202年ぶりと紹介されましたが…

未完成の改革

松平定信が田沼意次失脚の後、老中主座・将軍補佐となったのが天明七年(1787)のこと。それまで単なる白河藩主で何の役にも付いていませんでしたが、老中、しかも首座に抜擢されました。この時、定信はまだ30歳でした。 江戸時代を通じて、老中就任の平均年…